ザグレブ | (クロアチア) |
|12:50
列車はようやく到着した。
本来は12時30分発の列車なので、20分の遅れである。セルビアのベオグラードから遠路をやってくる列車だから、ある程度の遅れは仕方なのかもしれない。距離の長さもそうだが、遅れに対する感覚がゆるやかそうに思われた。
先ほどは危うく乗り間違えるところだった。
たしかに近郊列車のような、編成の短い軽量級の列車だった。しかし、すでに発車時刻をいくらか過ぎていたので目的の列車だと思い込んでいた。いったん空席に落ち着くが、後から乗り込んできた婆さんが乗客に向かってリュブリャーナに行くのか尋ねると、そばにいた姉さんが「Ne, ne」と答える。リュブリャーナは隣国スロベニアの首都であり、私がこれから行こうとしている町である。
もしやと思って様子をうかがうと、老夫婦があわてて降りていく。私も急いで列車を降りた。その列車も遅れて到着したようだった。私が待っている列車は仮りにもベオグラードからミュンヘンに向かうのだから、途中で連結や切り離しがあるにせよ、やはりもう少し長い編成だと考えるのが自然だった。
再びホームで待つこと五分、電気機関車に引かれた列車が入線した。
他の客も同じように不安だと見え、リュブリャーナに行くのか周囲に確認する人がいる。私も不安になり、
——Vozi li u ljubljana?(リュブリャーナに行きますか)
と聞く。文法的にやかましいことを言えば格変化が必要なのかもしれないが、会話集をカンニングするわけにもいかず、ただ単語を並べた。
乗り込む乗客たちがはたして行き先を知っているのか定かではないが、行くらしい口ぶりなので流れのまま列車のドアに進むと、今度は別の男が私にリュブリャーナに行くのか尋ねてくる。
行く、と言い切る自信もないので、「そのようですね」と英語で答えた。
二等車は六人掛けのコンパートメントだった。デッキから中に向かって進んでいくが、内側からカギを掛けたコンパートメントもあり、扉の開いたコンパートメントにしても空席はなさそうだった。車両の真ん中あたりまで進んだところでかろうじて空席を見つけたので入り込む。ホームで見かけた韓国人っぽい女性の真向かいで、ヨーロッパに来てアジア人どうしがつるんでいる感じは好きではないものの、席は早い者勝ちなのでそこに収まることにした。
荷物を棚に上げ、短い日記をメモしたところで列車が動き出した。
六人掛けのコンパートメントはこれで満席になった。白人は右斜め前に座るおだやかな婦人が一人いるばかりで、あとの五人はアジア系という、完全にホームの空気だった。私の左で向き合って座っているのは若いインド系で、遠慮のない距離感とその容貌とから兄弟と思われた。右隣りは荷物の多い、これまたインド系の初老の男。頭にターバンを巻いているのはどこか映画的だが、おそらくこれがこの男の正装なのだろう。
そして向かいに座っているのは、先ほど書いたように韓国人と思える学生風の女の子だった。韓国人を確信させる印はとくになかったが、スニーカーではなくサンダルを履いている気軽さや、日本からの単身バックパッカーにありがちな、何でも来いといった豪放な空気や、逆に閉じこもった感じの警戒感がなく、むしろ外界に開きながらも警戒を怠らない空気が日本人離れして見えたのである。
なので、しばらく経って『地球の歩き方』を読み出したのを見て、自分の判断の誤りを知ることになる。
クロアチア → スロベニア
(Google Mapを加工)
|午後1時半ごろ
列車は30分ほどでクロアチアを出国し、スロベニアに入国する。かつて旧ユーゴスラビアの時代にはクロアチアとスロベニアは同じ国だったので出入国審査などなかった。それが今や別々の国であるどころか、スロベニアはEUに加盟している。つまり、クロアチアからスロベニアに入ることは、EUに入ることに等しい。
EU域内では移動が自由であるため(*1)、域外から域内に入る水際の審査がそれなりに厳しくなることが予想された。ただ、日本のパスポートをもっていれば大過ないはずである。
注 *1:正確には、自由に国境を越えられる範囲はEUではなく、シェンゲン協定の加盟国である。
実際、向かいの日本人はパスポートの記載ページをちゃちゃっとチェックされただけで入域スタンプをぽんと押された。次は私の番である。同じようにパスポートをぱらぱらとめくり、記載ページをちゃちゃっとチェックする——だけかと思われたが、若い女性審査官は私の名前と生年月日を襟元のピンマイクに吹き込む。歴史的に対セルビア感情のよくないスロベニアだけに、あるいは去年極東を訪れたときに取ったロシアのビザが引っかかったか。ただ、ピンマイクを備えているおかげでパスポートを持ってどこかに消えてしまうことはなかった。せめてもの旅客サービスということか。いや、単に業務効率のためだという気もする。
ともあれ、善良な日本人旅行者を引き留める理由などあるはずもなく、ほどなくして私のパスポートにもスタンプがぽんと押されて返ってきた。
右隣りに座る初老のインド人は、おそらく本人としては至って普通にしているのだろうが、多くの荷物を持ち込み、頭にターバンを巻いた寡黙な男は、いやでも人目に付く。案の定(と予断しては失礼だが)、女性審査官からあれこれ質問を受けたうえ、パスポートをためつすがめつ入念にチェックされ、名前をマイクに吹き込まれる。男はひとつひとつの質問に粘り強く答える。
たっぷり3分ほどかかっただろうか。最後には嫌疑が晴れたようで、入域スタンプがぽんと押され、「Thank you」の言葉とともにパスポートが返された。
乗客によっては細かいチェックがあったものの、かつての旧東欧時代のような威圧的な態度は見らず、さすがに笑顔こそないが、物腰はあくまでも事務的で、淡々と作業をこなす。EUクオリティーと呼ぶべきか。
* * *
|14:28
セブニツァ(Sevnica)駅に到着。乗り降りが済むとすぐに発車する。
スロベニアに入って田園風景が豊かになったと思うのは気のせいだろうか。実りそのものというより、しっかり整備されている感じがする。家屋にもどことなく余裕を感じる。
入国審査をきっかけに、向かいの女子パッカーと話をするようになった。どうやら互いに日本人と思っていなかったようだ。
聞けばドイツに語学留学中とのことだった。大学でドイツ語を専攻しているというから、本業のための留学ということになる。夏休みが異様に長いので、こうしてときどき旅行しているらしい。
その気軽な雰囲気は、ヨーロッパ内の旅行ゆえかと納得した。日本でなら何の話題もない者どうしでも、旅先なら旅や留学の話がひとしきり続く。半年の留学生活に気疲れしているのか、あるいはこれから迎えるドイツの厳しい冬が今から憂鬱なのか、それとも元からそういう性格なのか、言葉の端に軽く投げやりな色が感じられた。
リュブリャーナ | (スロベニア) |
|16:10 リュブリャーナに到着!! 次に乗る列車は20時49分発なので、四時間半の時間がある。それまで観光と買い物をしよう。
・シェンゲン協定(ウィキペディア)