旅行記 Index   ロゴ
いざ行かん、バルカン
クロアチア〜イタリアの旅, 2011年
6. ザグレブ〔5〕 セルビア正教会 2011.9.26mon.
ザグレブ
花屋の店先
|夕方4時ごろ
 旧市街からイェラチッチ広場に戻り、さらにイリツァ通りを南に渡る。
 手元のガイドブックに「ギリシア正教会」と出ている建物が近いので行ってみる。ギリシャ正教は東方正教会や正教会とも呼ばれる。ギリシャの名前が付くのはギリシャ古典文化を継承するからだというが、一見して国名のようでまぎらわしいので、私は「東方正教会」を使うことが多い。
 東方正教会は国ごとに下部組織があり、たとえばロシア正教会や(狭義の)ギリシア正教会などがある。一方、クロアチアはカトリックが中心の国なので、クロアチア正教会という組織はない。たとえば今から訪れる教会は、セルビア正教会に属する教会である。

 教会の中に入ってみる。
 大きな教会ではない。学校の教室二つ分くらいの信者用スペースがあり、前が柵で仕切られている。柵の向こうが聖職者が祭事を行う内陣だ。カトリックの教会ならキリスト像が置かれるところだが、ここは正教会なのでキリスト像はなく、かわりに奥の壁一面にさまざまな宗教画(イコン)が描かれている。正教会のこの壁をイコノスタスと呼ぶらしい。
 この壁はじつは建物の一番奥ではなく、絵にまぎれて扉が三つ並んでいる。つまり、イコノスタスの向こう側にも小部屋がある。これを至聖所(しせいじょ)と呼ぶ。扉はふだんは閉じられていて至聖所は見えないが、祈祷(きとう)中には何かの拍子に扉のひとつが開かれて聖職者が出入りする。
 要するに、祈祷中は信者たちが教室二つ分くらいの聖所で祈り、聖職者は内陣で祈祷を執り行い、ときおり壁の扉が開いて聖職者が奥の至聖所との間を出入りする——という成り行きである。

 ところで、手元のガイドブックには教会の名前が出ていない。帰国後に調べてみると、日本語で「顕栄大聖堂」というらしい(下欄外のリンク先参照
 意味不明な教会用語が登場してしまったので、再び日記が中断するのだが「顕栄」(または「主の顕栄)は英語で Transfiguration of Jesus といい、形を変えるとか、変身するといった意味であるらしい。これは新約聖書に記載された奇跡を指すという。
 具体的には、イエス様が三人の使徒を連れて山に登ったとき、預言者たちと語りながら光り輝き、天から父なる神の声がしたという。

 堂内では十人余りの中年男女が所在なげに立っていた。隅のイスに腰掛けている人もいる。長イスはなく、ダンスフロアのようながらんどうである。東方正教会はたいていこういう造りになっている。信者に優しくないのではなく、起立することが神への信仰表明なのだという。
 信者たちはみなぼんやりとした表情で、何かを待っている風情である。時刻は夕方の5時前だった。
 ——そうか、ミサが始まるのだ。
 ふらりと立ち寄った教会で、今まさにミサが始まろうとしていた。
 ただし、ミサはカトリックの用語であるらしく、正教会では「聖体礼儀(せいたいれいぎ)」と呼ぶようだ。非信徒にすれば呼び方の違いなどにあまり興味はなく、祈りの儀式に違いはなかろうと思うのだが、他ならぬ信仰に関わることなので妥協はできないのだろう。

 やがて黒衣に身を包んだ聖職者が内陣に現れ、歌を歌い出す。朗々とした、よく通るテノールだ。
 正しくは、歌というよりも、聖典の文章を抑揚をつけて詠唱しているというべきかもしれない。おそらく仏教でいう声明(しょうみょう)のようなものだろう。
 ひととおり歌い終えると、今度は少年少女の賛美歌のような歌が背後の二階あたりから聞こえてくる。おそらく録音なのだろうけど、厳粛な雰囲気のなかでまさか振り向いて確認するわけにもいかず、音の出所はけっきょく判明せずじまいである。聖職者と合唱団の掛け合いのようなこのパターンは、他の正教会のミサ——いや聖体礼儀——でも同じだったので、正教会に共通の様式なのかもしれない。

 聖職者と合唱団による唱和がひとしきり終わると、聖職者はいったんイコノスタスの奥に引っ込み、鎖の付いた香炉を手に戻ってくる。いわゆる振り香炉である。香炉部分からは淡く白い煙がふわふわと立ち上る。聖職者はイコンや信者に向かって香炉を振り、煙をかける仕草をする。香炉を振って煙をかける所作は、正教会の聖体礼儀でよく見かける行為である。
 聖職者は何かの拍子に柵を越え出て、信者たちのすぐ近くまで来て香炉を振る。白煙は振られた勢いで一度はこちらに向かおうとするが、煙はいかにも淡く軽く、まるで堂内の空気に悪意でもあるかのように遮られ、たちまち減速してその場に霧散する。それでも信者たちはここぞとばかりに一斉に十字を切る。
 蛇足ながら、カトリックと正教会とでは十字を切る順序が逆になる。カトリックは左肩→右肩の順だが、正教会では右肩→左肩の順だ。また、指の形は焼香のときに似て、親指、人差し指、中指の先を軽く合わせる。合わせた3本の指先は、三位一体の神を表すという。

 唱和と振り香炉が延々と続く……。
 飽きが少し募ってきた頃、内陣に台が用意される。おそらく最後にはパンと葡萄酒、あるいはその代用品が登場するのだろうが、真打ちはそう簡単には登壇しないものと見え、聖職者は内陣の台をゆっくりと回りながら香炉を振ったかと思えば、今度は奥の至聖所に引っ込んで儀式めいた所作を行う。そんなパターンが何度か繰り返される。
 腕時計に目をやると6時を過ぎていた。1時間以上が過ぎている。
 台が用意された時点でいよいよクライマックスかと思いきや、同じような振る舞いが長々と続くばかりで、儀式が盛り上がっていく気配は一向に見えない。一部始終を見届けたい気持ちは山々だったが、立ち見に疲れてきたうえ、そろそろ食事のことも考えねばならず、私は好奇心のくすぶりと途中退場する引け目を感じながら外に出た。

旅行写真
顕栄大聖堂

細かな補足等 2014.2.08
デザイン変更など 2013.9.12〜16
改 2012.6.23
記 2011.12.16
参考文献:
『ギリシャ正教』高橋保行、講談社学術文庫、1991年

関連リンク:

〈建物や用語〉
顕栄大聖堂(ウィキペディア)
救世主顕栄大聖堂(ウィキペディア)
・「正教会」「東方正教会」「ギリシャ正教」の呼び方については、
 御茶ノ水の泉通信(Q&A)を参照。
・「ミサ」と「聖体礼儀」については御茶ノ水の泉通信(Q&A)を参照。

〈儀礼〉
・聖体礼儀について:こちら(日本正教会)
聖体礼儀(ウィキペディア)
振り香炉(ウィキペディア)

〈正教会〉
セルビア正教会(英語)
正教会(ウィキペディア)

□ セルビア教会の詠唱の例
http://www.youtube.com/watch?v=RzD_25kaRXQ