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− 短編・旅エッセイ −
ゆくらゆくらにアジアたび

<6> 古城賓館の朝





 





 




中国福建省潮州
 町の一等地なら、龍やら国際やらの言葉がついた豪勢な名前のホテルもありもしようが、旧市街の、夜になれば果物屋台が裸電球をぼんやり灯すような界隈にあれば、その名も古城賓館と、おのずから地味になる。
 真夏という季節柄か、あるいは年中そうなのか、観光地にありがちなわざとらしい浮かれ方はなく、よくいえば落ち着いた、悪くいえばいくらか寂しい宿であった。
 初日は一番安い部屋に泊まった。部屋のカギは各階の服務員(従業員)が管理するという、昔ながらの中国・旧ソ連スタイルである。一番下のランクといっても、部屋はバス・トイレつきであるし、うるさいながらもエアコンは問題なく作動する。要するに十分快適な部屋であった。
 ただ残念ながら、次の日は予約が一杯だとかで、一ランク上の部屋に移らねばならなかった。翌朝、私は仕方なくフロントで部屋を替える手続きをした。服務員は銀行のキャッシュカードのようなプラスチックのカードを、いかにも自然な手つきでパソコンに差し込み、なにやらデータを書き込んで私に渡す。カードの裏側には、金色にメッキされたICが埋め込まれている。ICカードのキーだった。
 ICカードなど珍しくもないというのに、中国の地方都市のせいもあり、まるでクレジットカードを生まれて初めて手にしたときのように、目の前の現実が鮮やかで初々しかった。私は、少し誇らしい気持ちでICカードを胸ポケットにしまい、エレベーターに乗る。

 エレベーターを降りると、すぐ前のスペースに重々しい服務員デスクが置かれてあった。その向こうに、いくぶん小柄な感じのショートカットの少女が座っている。私は支払い票を示し、そのまま部屋に向かおうとした。
 そこで呼び止められたのだった。
 歯切れのいい、よく通る声である。しかしそこには、まるで電柱の影からいきなり躍り出てきて通せんぼをするかのような強引さがあり、私は少し気分を害した。基本的な手続きはフロントで済んでいるはずなので、おそらく大した用事ではないにちがいない。少女はこちらが理解しないのを知ると、デスクの電話を取ってダイヤルを回す。廊下の天井をぼんやり見ながら、意識は受話器の呼び出し音に注がれた。しかし誰もいないのか、応答する気配がない。
 少女は、フン、と鼻を鳴らして受話器を置き、もう一度トライする。
 ツルルルル……、ツルルルル……。
 呼び出し音が続く。そろそろ短気を起こす頃かと見ればそうでもなく、少女は焦れる思いを押さえながら、意外と辛抱強く待っている。
 ツルルルル……、ツルルルル……。
 不在なのか、サボっているのか、やはり誰も出ない。少女は、まるで旅館の女将がぐうたらな仲居を「困った連中だよ」と嘆くような面もちで、軽くフーと息を吐く。それでも確認しないと先に進めないことでもあるのか、しばらく困った顔で思案していたが、すぐに何かハッと気づいた様子で別の番号をダイヤルする。どうやら勘は当たったようで、五秒ほどして「ウェイ(もしもし)」と応答が聞こえた。
 電話を切った少女の表情は、とてもさばさばしていた。いまにも「もう行っていいよ」とでも言いそうな顔で屈託なく笑う。こちらもつられて気持ちが軽くなる。私は廊下を進み、胸ポケットからICカードを取り出してドアを開けた。

 私はその部屋に二泊した。わずか十分たらずの共同体験だったが、それ以来、エレベーターに乗るたびに、そして外から戻るたびに、服務員の少女は私に「ニイハオ」と言って笑った。
 チェックアウトの朝、荷物を持って廊下に出ると、少女は別の服務員と二人で隣の部屋を片づけていた。ひとこと「我走了(出発します)」と言おうと部屋をのぞいたが、運悪く掃除機の鈍いモーター音が部屋いっぱいに響いている。何を言っても聞こえそうにない。ちょうどチリを含んだ生温い風が、まるでドア口の私を押し戻すかのように吹いてくる。
 私はそのままエレベーターに乗り、フロントでICカードを返却する。私の記録もこれで跡形なく消えてしまうが、旅行者にはむしろそのほうがすがすがしい。私は通りに出て人力車を拾うと、古い建物が続く街並みのなかを、バスターミナルに向けて車に揺られた。

─ 初出:『恋するアジア』第23号(1999年11月)─
修正:2012年10月23日