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− 短編・旅エッセイ −

<1> 夜明け前





 





 




タイ・ノンカイ
 バスは道端で停車した。
 あたりは行き交う車もなく、まだ薄明の気配すらなく、家々は夜の底で静かに眠っている。高校生かと思えるような少女の車掌に「ノーンカーイ」と告げられた私は、あわててデイパックと水を手に取ると、見知らぬ町へと降り立った。ノンカイはてっきり終点だと思っていたのに、私と数人のグループを路上に降ろすと、バスはまだ先を急ぐふうに、街道を事務的に走り去る。
 時刻は、午前四時半を過ぎたばかりだった。
 多少の延着でもあればすぐに夜が明けるとふんでいたのに、逆に一時間も早く着いてしまった。それでもバス客をあてこんだトゥクトゥクが二台、まるで誘蛾灯に引かれた蛾のように、どこからともなくやってきていた。
 どこへ行く? 
 当然のように聞かれるが、私自身にもわからない。ガイドブックを開き、有名そうなゲストハウスを適当にみつくろって名を告げると、相手はさすがに心得ていると見え、わかったとうなずいて私を荷台へと促した。
 未明の街並みに、乾いたエンジン音がバリバリと響く。気だるく生暖かい空気はどこか夜に不似合いで、まるで時間のない世界に来たような心持ちがする。しかしトゥクトゥクは確実に目的地に向かい、いくつかの角を曲がると、最後に細い土の道をたどって突き当たりで停車した。遠くで犬の吠える声がする。
 手前の入り口に、白熱球が灯っていた。淡い期待をもって中をのぞいたが、そこは単なる物置きのようで、周囲を歩いたり別の扉をノックしたりしたものの、さすがに午前五時前のゲストハウスに、人の気配は残っていなかった。
 ──川でも眺めて待つとするか。
 私は長期戦を覚悟し、建物に背を向けた。
 白熱球が庭のところどころに吊されて、ぼんやりと闇を照らしていた。庭は、メコン川をはさんでラオスと向き合っているはずだった。私は好奇心に動かされ、雑草の生い茂った岸に近づいてみた。しかしその先はただ茫漠として、真っ黒な空白が、その正体を隠しながらあたり一帯にわだかまるばかりである。
 ふと目を上げると、対岸らしき場所で光が動いた。流れ星がすぅーっと光跡を引くように、ときどき物陰にさえぎられながら、長距離トラックらしいライトがひとつふたつ、黒々とした大地の腹を、左から右へと真一文字に裂いて滑る。しばらく見ていると、何分かおきに光が左から現れては右奧へと消えていく。ラオスにも、この時刻に働く人がいるようだ。
 そういえば、あの対岸とこの此岸を、かつて泳ぎ渡った人がいると聞いた。内戦や革命の余波を受け、多くのラオス人がタイに亡命したという。目の前の底なしの川に全身を飲まれ、あえぎ、もがき、見えない岸を唯一の望みに、深い夜陰を泳ぎ越えてきたのだろうか。
 そんなことを考えているうちに、ゆっくりと闇が薄れていく。小さな川音に、茂みをかきわけて川面をのぞくと、どこから現れたのか、夫婦の乗った小舟が一隻、岸の近くに漕ぎだしていた。傘の形をした網を広げ、魚を捕っているようだった。慣れた手つきの男と、それを当然のように手助けする女──。
 しゃば、しゃば、しゃば。
 茂みの向こうから冷涼な水の音が伝わってくる。その音は二人の息づかいにも似て、未明のメコンに、力強くも軽やかなリズムを刻んでいる。
 すでに、朝の気配が漂っていた。
─ 初出:『恋するアジア』第14号(1998年5月)─