旅行記 Index   ロゴ
− 短編・旅エッセイ −

<3> 秋の寺にて





 





 




中国雲南省大理
 長袖シャツが程よく温かい、秋晴れの坂道を爪先上がりに上っていると、建ち並んだ民家の下のほうから、奇妙な音楽が流れてきた。
 チャルメラのような、ややくぐもった感じの陰気な響きである。音は、一筋隣りの坂道を上ってくるようだった。周城(しゅうじょう)の町は、胡蝶泉(こちょうせん)という観光地のすぐ隣りにあって、ペー族の家々が街道わきの斜面一帯にべったりと広がっている。
 私は隣の辻まで行き、坂の下をそっとのぞきこんでみる。
 先頭を行くのは二十代半ばほどの若い男で、暗いピンク系のブレザーにたすき掛けという格好に、ちょうどウェイターが一度に何人か分の料理を運ぶように、腹の前に大きな盆を抱えていた。遠くてよくは見えないが、盆の上にはこまごまとした品々が載っているようだった。
 その斜め後ろを、ラッパ吹きの中年男が行く。さらにその後ろを、四十代中心の男たちがぞろぞろと歩いてくる。結婚式という雰囲気ではない。どちらかといえば葬礼の行列である。
 私はいったんその場を離れて一行をやりすごした後、ラッパを頼りにふたたび坂を上る。ラッパの音はやがて途絶え、私も坂を上りきった。目の前に、こじんまりとした寺があった。

 門をくぐる。十メートル四方ほどの中庭の向こうで、法要が行われていた。人の背丈ほどの仏像が左右に三体並び、先ほどの男たちが本尊とおぼしき中央の仏像の前に集まっている。仏前にはお供えが置かれ、一人の老人がなにやら経文らしき文句を長々と唱えている。息継ぎの合間に、小さな鐘がチーンと鳴る。
 死者はいないようだった。
 式の規模も小さく、三回忌のような節目の祭礼かもしれない。あるいは、なにかのお祓いだろうか。どのみち経文の単調さに変わりはなく、私は多少の退屈を覚えながら式の進行を見守った。
 やがて経文が終わると、人々は供え物を持ってつぎに左の仏像へと移動する。そこでも同じような読経が五分ばかり続き、さらに右端の仏像の前でも同じことが繰り返された。やがてそれも終わり、
 ──さて、次は何をするのだろう。
 と、気を抜いた瞬間、パンパンパン、パンパンパンパンパンと、中庭の爆竹が弾けた。火薬の匂いと白い煙が、たちまち境内に立ちこめる。
 ふいをつかれた私を尻目に、男たちは当たり前の顔で、中庭の右手にある別の仏像に集まると、そこでも似たような礼を施した。
 老人は、ひと仕事を終えたところで私に近づいてきた。持っていたヒマワリの種を分けてくれる。おまけにお茶まで出してくれた。言葉は曖昧で、すでに耄碌(もうろく)しているのかとも疑われたが、行いは親切なうえに人の話はしっかり理解しており、どうしてなかなか健常である。
 老人は、僧衣はもとより、宗教者らしい装束は何一つ身に着けていなかった。見た目はふつうの市民である。このあと紹興酒を振る舞ってくれたのをみても、まったくの俗物である。伝統的な地元の僧侶か祈祷師といったところだろうか。

 やがて、中庭で食事会が始まる。一つのテーブルを囲むだけの簡素な食事会である。手の込んだ料理はないが、豚の頭の丸焼きやニワトリの丸焼き、それに乳扇(にゅうせん)という地元の特産品など、かなり豪勢である。男たちのなかには、よごれた手で肉をちぎって差し出しす親切な人もいて、私は多少躊躇しながらありがたくいただいた。一方、女たちは裏方に徹しているのか、たまに姿をみても表に出てくることはなかった。
 食事は、三十分ほどでお開きになった。来たときと同じように、やはりブレザーの男が盆を抱え、後ろに男たちが続く。一行は、ラッパの音とともにそそくさと寺を出ていった。私は中庭でしばらく余韻を楽しんでから寺を辞した。
 振り向くと、門の内側ではいまだ白煙がうっすらと漂い、明るい秋の日を拒んでいた。私はもと来た道をふらふらと下る。ひっそりとした坂道に、すでにラッパの音は聞こえなかった。(完)

景帝廟の入口 景帝廟
景帝病の中庭 景帝廟
周城の市場 市場
周城の狭い坂道 道
(撮影はすべて2007年)
─ 初出:『恋するアジア』第17号(1998年11月)─
文の修正と写真の追加:2012年10月21日