山門をくぐると左手にお供え用品の露店がある。露店が途切れて大木が植わったあたりに、7、8人の若い女性が2人の男に引率されて集まっている。売り子から何かおやつを買って食べていた。
——変わった寺かもしれない。
ラオスの寺には少し間延びした厳しさが満ちている印象があるが、ここは俗世界がそのまま境内に入り込んでいる。まるで郊外にハイキングにでも来たかのような彼女らの楽しげな様子に、緊張がゆっくりほどけていく。
本堂を少しのぞいて雰囲気を味わってから、周囲を一巡りする。この寺は山門からすでにインパクトがあるが、本堂の周りにも山門に劣らず風変わりな像が何体も置かれている。
極めつけは象頭のガルーダである。ガルーダはインドの神鳥で、ふつうは鳥の頭をもつが、このガルーダは頭が象である。ラオスがいくら「100万頭の象の国」と呼ばれた歴史があるといえ、鳥と象の習合は果たして「あり」なのか?(笑)
仏像の印相(手のポーズ)についてはオントゥ寺の項で少し書いた。ここワット・シームアンには、両手を胸の前で交差させた仏像がある。幼稚園児の遊戯のようでどこかほほえましいが、他では見た記憶がない。帰国後に調べてみると、跋折羅(ばさら)印がこれに当たるようにも思えるが、いまひとつ判然としない。いったい、どういう意味があるのだろう?
本堂の裏に回ると先ほどの女子グループが談笑していた。ときおり声を上げて笑っている。上は白いブラウス、下はシンというラオスの伝統的スカートなので、学校か職場の制服のようだ。陽気な磁場に誘われて「サバイディー」と声を掛けると、2、3人が笑顔を残したまま明るく「サバイディー」と返してくれる。
本堂に戻って中に入る。
祭壇がなにやら賑やかしい。献花がやけに多い。しかも一つひとつはたしかに豪華だが、全体としてモノトーンで飾り気がない。奥に置かれている老僧の写真も、仏堂に飾られるには違和感がある。
——あれは遺影ではないか。
そういえば入口付近には何か行事を行った、あるいはこれから行うらしい様子が見られた。もしかして、寺の高僧が遷化(せんげ)されたのだろうか?
本堂を出たあと、改めてそういう目で周囲を見ると、なるほどこれらが告別の儀式の用意だと思えば納得がいく。本堂の前では長机の上に仏花が供えられ、弔文とおぼしきさまざまな言葉が老僧の遺影を取り囲むようにずらりと展示されていた。
告別式にはまだ日数があるのか、寺はわりと平静で落ち着いている。境内は参詣者が次第に減り、それが日々の営みなのだというように、空気は午後の活力を失いながら夕方の凪(なぎ)へと移り変わっていく。取り残された気分になった私は、すでに人気のない前庭を抜けて山門を出た。