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序 章
スニーカーを脱いでドアを押す。
素足に冷やっとした感触を伝える、つるつるとした床を踏んで中に入ると、家具の少ないシンプルな部屋の中央に、キングサイズのベッドがでんと据えられていた。
「もう寝る?」
相方の問いに、私は「寝る」と答える。明朝も相方は仕事で早い。それに私も疲れている。時刻はすでに十二時を大きく回っていた。私は上着を脱いで、ベッドの脇に静かに置いた……。
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午前様
中国雲南省シーサンパンナ州景洪(チンホン)の、とある外国人相手の軽食屋には、旅行者のほか、日本語を勉強中の版納賓館(パンナひんかん)の女子従業員や、フリーでガイドをしているというタイ族の男や、英名を自称する青年や、その他、続柄不詳の若い男女が、アフターファイブの時間をつぶしにやってくる。
そんな店の常連として、私がいつものように晩メシの後に立ち寄り紅茶を飲んでいると、なんの拍子か、十時を過ぎた時間にカラオケに行くことになった。
ハニ族の女の子やタイ族の青年、イギリス人の旅行者などの六人で、リキシャに乗って近くの公営ホテルに繰り出す。私は中国語の歌はからっきしだめなので、イギリス人とともにただ眺めていた。唯一、「北国の春」のカバーを日本語で歌うのが関の山だった。時間も遅かったので、ぱぱっと騒いで、ぱぱっと終わる、そんな会になった。それでもお開きになったのは、そろそろ十二時を回ろうかという刻限だった。
建物を出て、仲間たちと「おやすみ」を言いあって別れる。タイ族の青年だけがたまたま同じ方角で、私の宿までいっしょに歩くことになる。
道中、二言、三言の世間話をしたあと、男──自称ジャッキー──が聞いてきた。
「カノジョ、いるの?」
「没有(いないけど)」
男同士の間で、よくある会話である。ジャッキーは続けて問う。
「ルームメイトの男とは、いっしょに旅をしているのか」
「いいや」
たまたま同室になっただけだ、と言いたかったが、適当な中国語がみつからなかったので、そのままにしておいた。いっしょに旅行していようが、一人の旅行だろうが、大したことではない。
やがて私の宿が近づいてくる。
守衛に門を開けてもらって、服務員に部屋の鍵を開けてもらって……。一連の手続きは、考えるだけでかったるい。そんな私の気持ちを見透かしたかのように、ジャッキーは言う。
「友だちはもう寝てるよ」
「ああ」
「服務員に鍵を開けてもらわないといけないよ」
「ああ」
続けて意外な言葉が出てきた。
「オレのところに泊まってもいいけど」
え?
信用できる人物である。あの店では知られた顔だし、外国人相手にガイドをしていれば、実入りもいいはずだ。私のような貧乏バックパッカーを狙ってもしかたがない。犯罪の心配はないとみた。
残る問題は、その言葉が社交辞令でなく、本意かどうかである。とはいえ、シーサンパンナで地元の人の部屋が見られる機会など、めったにあるものでない。私がそのところで躊躇していると、泊まりたければおいでよと、再度勧めてくる。
──じゃあ、お世話になるか。
私たちは宿の門前をそのまま通り過ごして、彼のアパートへと向かった。
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アパート
大通りから細い道を入った突き当たりの、コンクリートの三階建てが、ジャッキーの住むアパートだった。泥棒よけか、階段をのぼりきった廊下への出口に、鉄柵の扉があって施錠されている。ジャッキーはポケットから鍵の束を取り出して錠を開け、鉄柵を押して廊下へと出る。左手に、共同トイレと洗面台があった。
ジャッキーの部屋は、右手の突き当たりにある。漢族なら土足であがるところを、タイ族だからか、ドアの前で靴を脱ぐ。彼がドアを押して中に入るのに従い、私もスニーカーを脱いで部屋に入った。胸丈ほどの整理棚の上に、小さな仏像が置かれている。ほかに家具らしい家具のないガランとした部屋のせいか、中央に据えられたダブルベッドが、やけに大きく見えた。
──これなら二人が寝られる。
私はとりあえず安心し、ジャッキーの勧めにしたがってボタン・シャツとジーパンを脱ぐ。貴重品袋も首から外した。
翌朝の起床時間を確認して、私たちは大きなベッドにもぐり込んだ。
三○分ほど経っただろうか。ジャッキーが寝返りを打ってきた。しかし、さすがはダブルベッドである。こちらに向いても鼻先が私の肩をかすめる程度だ。余裕は十分ある。
ところが……、なにかが違うのである。なにか不自然な気配が、二つの体の間にわだかまっている。そういえば、リズミカルな寝息というものが聞こえてこない。一瞬、イヤな予感がした。
──いやいや、考えすぎだ。
つまらぬ憶測に短い睡眠時間を費やすのもばからしい。私は気持ちをほぐすために少し体を動かし、壁に向き直った。ジャッキーも気配を察したのか、ふたたび寝返りを打って私に背を向ける。
──よし、よし。
私はおおいに安心し、眠りに落ちていく……はずだった。しかし数分すると、ジャッキーはまたしても寝返りを打ってきた。今度は、彼の口元が私の背中にひっつく。それだけではない。寝返りを打った拍子に、ジャッキーの右手が、私の腰の上に、だらりと力無く放り出されたのである。
──おい、おい。
どこまで寝ぼけているのか。心中でそうつぶやきながらも、心臓が高鳴りはじめる。微動だにしないジャッキーの、しかし右手の皮膚だけが、ぴくんぴくんと彼の動悸を伝えてくる。
──お、起きている!
私は直感した。もしかして、私はいまそういう状況にあるのか?
──ま、まさか。
即座に否定してみたものの、事実はどうも動かしがたくみえた。
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危 機
思えば、カラオケを出たときに彼女や同室者のことを聞かれたのは、たんなる雑談などではなかったのだ。女や男への興味度を確かめるのが、目的だったにちがいない。はじめから私を鑑定していたのだ。
──ちくしょう、図られたか。
やわらかな手のひらの感触が、腰骨の上あたりをじんわりと暖めてくる。すでに頭に血が上り、考えがまとまらない。いや、こういうときにこそ、冷静にならなければ。
とりあえず私も寝ぼけたふりで無意識を装い、少し体を動かしながら、男の手をさりげなく振り落とした。
それにしても──。まったく迂闊だったというしかない。犯罪の可能性がないという自信はあったが、男を求めている可能性にまでは想到しなかった。シーサンパンナまで来て、男に貞操を奪われてたまるものか。
しかし、夜は長い。このあとなにが起きるかわからない。私は決意を新たにしながらも、「もしも」の場合を考える。
もしも、力ずくで迫ってきたら……。もしも、刃物をちらつかせて迫ってきたら……。
力比べなら、火事場の馬鹿力でなんとか凌げそうだ。奴の体格は私よりも小さい。しかし、凶器をつきつけて迫ってきたら、どうしようもない。しかも逃げ場がない。あの階段の錠が致命的だ。鉄柵を開けない限り、三階から飛び降りる以外に地上に逃れる道はない。そこまでの事態は起こらないと願いたいが、考えはついワーストケースに及んでしまう。
以前、知り合いの、さらに友だちの女性が、台湾で宿泊先のオヤジに迫られ、必死で抵抗したあげくに殺されるという理不尽な出来事があった。その話を聞いたときには、
──抵抗しなければ、命だけは助かったものを。
と、わけ知り顔で思ったものだ。が、いざ自分がその立場に置かれてみると、「こんな奴に許してたまるか」という、烈々たる反発心がわきおこってくる。
イヤなものは死んでもイヤなのだ。でも、死ぬのもイヤだ。厳しい二者択一である。あとは運に祈るしかないのか。殺すなら殺せ。
乱れた思考がとりあえずそこまで行き着いたところで、気持ちはひとまず落ち着いてくる。しかし──落ち着くヒマもなく、奴はふたたび寝返り攻撃を加えてくる。
──この野郎!
思わず「ファ×ク・ユー!」と叫んで殴りたい衝動に駆られたが、もしもそこで、
「OK、ファ×ク・ミ〜」
なんて甘い声ですり寄られでもしたら、それこそ神経が切れてしまう。私はかろうじて愚挙を思いとどまった。
しかし、手が、またもや熱をもって、腰骨のあたりに放り出されてくる。しかもそれが、じりじり、じりじり、じりじり、じりじり……と、神経を集中させないとわからないくらいにゆっくりと、前のほうへと回り込んでくる。トランクスのゴムにそって、じりじり、じりじり……。
そのとき、ふと我に返った。思えば、彼のその努力はとてつもなく涙ぐましい。思わず同情して、
──そんなに私がほしいのか。
と、妥協しそうにもなる。
もしかしたら、女の人もどこかにそういう妥協点があって、ときにその周辺で揺れることがあるのかもしれないと思った。男の愚昧な性への執着に対して、「しょーがないなー」と、内心あわれみつつ、つい許してしまう状況がありそうな気がする。
しかし、今の私は、妥協するつもりなど微塵もない。
気がつくと、手は、きわどいポジションにまで進出していた。そろそろ払わなければ。
──はい、それまで。
私はまた軽く体を動かして、その手をやさしく払い落とした。
そんな攻防がさらに二、三回ほど続いたころ、ようやく隣からリズミカルな寝息が聞こえてきた。私も、一日の疲れとベッドの上の攻防で、精神的にも肉体的にもぐったりしたが、さすがにその夜は一睡もできずに夜明けを迎えた。
気が遠くなるほどの時間を過ごしたあと、どこか遠くのほうから、待ちこがれた一番鶏の鳴く声が届いてきた。やがてそこここで鶏がけたたましく鳴き、朝がやってくる。なにごともなかったかのように、二人して階段を降り地上の土を踏んだとき、ようやく私は、
──ああ、解放された。
と、自由を実感した。
大通りでは、清掃のおばさんがせっせと掃き掃除をしていた。新たな一日が、まもなくまた始まろうとしている。今日もいい天気になりそうだ。