旅行記 Index   ロゴ
マニラのトランプ師
(フィリピン)

序 章
 こんな整然と手入れの行き届いた公園が、混沌としたこのマニラの町にもあったのかと驚きつつ、さすがアメリカ文化圏だと訳もなく感心しながら、暑季の焼ける太陽を避けようと、ついふらふらとリサール公園の売店の影に入り、しばし風に吹かれていたときのことである。
「※▽&*$◇@+%?」
 一人の若い男が、タガログ語とおぼしき意味不明の質問をぶつけてきた。
 私が外国人だとわかると、あらためて英語で「今、何時か」と聞きなおしてくる。あと30分で正午だった。
 会話が世間話に移ると、男はふと思い出したように言う。
「来月、妹が日本に行くんだ」
 ダンサーとして働くのだという。ありがちな話である。しかし、バブル崩壊のあとではたしてウマい働き口がそう簡単に見つかるのかどうか。
 男もやはりそれが兄として気になって仕方がない、というふうに言う。
「聞くところじゃ、日本にはヤクザというマフィアがいるそうじゃないか。大丈夫だろうか」
 男の心配は、そのまま私の心配でもあった。男は続ける。
「妹が困ったときには、助けてやってもらえまいか」
 ふむ。
 私にも妹が一人いる。その妹は今、単身でフィリピンに暮らしている。私がマニラに遊びに来たのも、妹を訪ねてやってきたからにほかならない。
 他国に身内をあずける心配は、だから私にもわかる。それに漠然とながら、妹を受け入れてくれているフィリピンという国に、恩義のような気持ちもないではない。この男に協力することで、フィリピンへの返礼になりそうな気がした。
 よし、微力ながら協力しよう。
「わかった。ぼくの電話番号を教えておくよ」

誘 い
「それはありがたい。しかし……」
 男はいったん言葉を濁して、そしてまた続けた。
「妹だって、見ず知らずの人間にいきなり電話するには抵抗があると思うんだ」
 なるほど、たしかにそうかもしれない。私は言葉の続きを待った。ちょっと間をおいてから、男は別の質問をしてきた。
「今、時間ありますか?」
 あるといえばあるが、いきなり何の用か。男の意図が読めず、私は返答に詰まった。
 そんな私の動揺を打ち消すように、男は言葉をつなぐ。
「もし予定がなければ、いまから妹に会ってみてもらえないかと思って」
 ──なに? 身元不詳のお前に案内されるというのか?
 あまりにも芸のない直線的な誘いに、あきれて言葉を失った。よく見れば、たしかに芸のなさそうな男ではあるが、しかし会ったばかりの旅人に向かって妹に会ってくれとは、いかにも唐突である。
 そんな不器用さがしかし、かえって旅人を安心させることも事実だった。ワナは、もっと巧妙に仕掛けられるべきもの。木に竹を接ぐような一足飛びの誘い方なら、計算はないとも判断できる。
「なにか飲もうか」
 私が考え込んでしまったのを見て、男は持久戦にもちこんだ。
 横の売店で、コーラを二つ注文する。
 おごろうとするのを私は強引に制止し、自分の分は自分で払う。見知らぬ他人に借りをつくらないことが、旅の大鉄則である。借りがあると、いざというときに恩義が判断を誤らせる。切り捨てるべきときに切り捨てないと、ときに取り返しのつかない被害をこうむることもある。世の中、タダほど高いものはないのだ。
 コーラを飲みながら、二人で芝生のうえに座る。木陰をさらさらとわたる風が心地よい。気持ちが少しずつなごんでくる。
「どう、マニラは?」「これまでどこに行ったの?」といった会話がしばらく続いたあと、話はやはり妹へともどっていく。
「もちろん、むりに来てとは言わないさ。もしヒマだったら、と思って」
 しつこく誘ってくるヤツにはロクなのがいない。そういう相手はきっぱりと断るに限る。しかしこの男の態度はのらくらとして、獲物を狙うときの動物的な鋭さがなかった。こいつなら、あんがい大丈夫かもしれない。
「よし、わかった。行くよ」
 ヤバいと思えばすぐに撤退する──。それを肝に銘じて、男についていくことに決めた。

待ちぼうけ
 LTR(高架鉄道)がすぐ近くを走っていた。その高架下まで歩き、ジプニーに乗る。ジプニーは小型トラックの荷台に屋根と壁を取り付けた程度の手軽な乗り物だ。走るルートが決まっているのでミニバスに近いかもしれない。
 乗り込んだジプニーは南北に走る高架に沿って五分ばかり南に下り、そこでまた別のジプニーに乗り換える。こんどは、高架から離れて住宅地を西に入っていく。
 角をいくつか曲がり方角がわからなくなったころ、男は拳固で屋根をコンコンと二つ叩いて降りる合図を運転手に送り、私を促していっしょに降りた。
 周囲はやはり住宅街で、二階建ての庶民的な家屋が密集している。ハイソには縁がないけれど、日々貧困にあえいでいるふうでもない。区画全体が安閑として、正午すぎの気だるい空気が、熱暑の底でだらりと惰眠に落ちていた。
 辻から二軒目が、その男の家だった。
 玄関を入って二階に上る。
 ソファの前で、テレビがにぎやかなショー番組を流していた。30歳くらいの中肉中背の男が部屋に入ってくる。日に焼けて眉は濃く、口ひげを生やし、堀内孝雄ふうの典型的なフィリピン顔だ。
 私を連れてきた男(以下、Y)は、「義理の兄だ」と紹介する。
 しかし、私は義兄に会いに来たのではない。どことなく怪しげなこんな家は、さっさと用を済ませて引き払うに限る。
 とはいえ、目の前にいる義兄を無視するわけにもいかず、こんな男をわざわざ私に紹介したYの愚鈍さに腹を立てながらも、まあこれも一つの縁だとばかりに、多少は義兄と雑談を交えてみる。
 義兄は、おおらかな笑顔で私を歓迎した。
 武骨なYなどよりよほど人当たりがよく、気の利く男である。バンコクに行ったことがあるといい、片言のタイ語を披露してみせる。私もちょうどタイ語の初歩を勉強していたときで、
「ヌン、ソーン、サーム、シー、ハー、ホッ、チェッ、ペッ、カウ、シッ」
 と、1から10までの数字をいっしょに唱えたりもした。
 フレンドリーでいいやつではないか。肝心の妹のほうは、ちょうど今昼メシで外出しているから、ちょっと待ってくれという。
 食事どきに来たのは、たしかにタイミングが悪かった。どうせ長い時間ではないだろう。ゆっくり待とう。義兄は、その「つなぎ」の役にちがいなかった。
 雑談がやがて趣味の話に移ったところで義兄が言う。
「セイキヤ、あんた、トランプは好きかい?」

わ な
 なにげない質問だったが、瞬間、心に硬いものがカツンと当たった気がした。いくら人のいい男でも、ギャンブルが伴えば要注意だ。私は本能的に逃げ腰になる。
「いやあ、トランプなんてもうずっとやってないよ。あはは」
 それまでの義兄の態度からすれば、そこで彼もあははと笑って別の話題に移っていくはずだった。しかし義兄は笑わなかった。言葉はあくまでソフトにやわらげて、
「教えてやろうか?」
 と踏み込んでくる。意外な執着を怪しんで、私はさらに逃げ腰になる。
「いえ、い、いいです。トランプは、興味ないから」
 せっかくの相手のもてなしを断るのは悪いが、賭け事につきあわされる義理まではない。妹はまだ帰ってこない。
「じゃ、オレがあの男とゲームをしてみせるから、横でそれを見ていてくれ」
 先ほどまでのフレンドリーな爽やかさとは打って変わって、次第にねっとりとしたヘビのようなしつこさが、義兄の周囲を取り巻きはじめた。
 私は「興味ない」と明言している。にもかかわらず、自分の好みを強引に人に押しつける、その自分中心の態度が不愉快に思えた。
「セイキヤ、見るだけでいいんだ」
 ──しつこいヤツだな。
 私は苛立ちを覚えはじめた。
 しかし、ここでケンカ別れをすれば、Yに無断で逃げ帰ることになる。せめてYが同席していれば、私が怒って帰っても事情はわかってくれるだろうに、これでは帰るに帰れない。
 そう思うと、Yにも腹が立ってくる。そもそも私の相手を義兄にまかせるなんて、そこからして無責任ではないか。
 義兄の投げた網は、少しずつ私をからめてくる。
「セイキヤ、じゃ、トランプをもってくるから」
「見たくないです」
「見るだけだよ」
「見たくないのです」
「あのな、セイキヤ。じつは……」
 一向にラチがあかないと悟ったのか、義兄はそこで一気に核心を突いてきた。

危 機
「じつはオレ、カジノで働いてるんだ。オレと組めば儲かるぜ。掛け金はいらない。オレが全部出してやる。セイキヤの取り分は儲けの25%。残りの75%はオレがもらう。どうだ、セイキヤに損はさせない」
 おおっ! 
 こ、これはもしや、「いかさまブラックジャック」ではないか。
 日比野宏さんの『アジア亜細亜ASIA』にも登場するブラックジャック詐欺……。不肖セイキヤを賓客に選んでくださったとは、なんたる栄誉。
 しかし、こんな見え見えの説明をされて、真に受けろというのは土台ムリな話である。
 見ず知らずの観光旅行者に儲けさせるほど、あんたはヒマじゃないはずだ。どういう仕組みかは知らないが、損をするのは無知な旅行者だと相場は決まっている。
 私はYの妹に会いに来たのだ。せめてその目的を果たさないと、こんなヤツの相手を強要されたあげく、逃げるようにして退散したとあっては不本意きわまりない。
 もう少し。あと少しだけ時間稼ぎをしよう。それでも帰ってこなければ、運がなかったと諦めるほかない。
 そう決めると、私は再び拒否の姿勢に入った。
「すみませんが、私はトランプはせんのですよ」
 しかし、義兄には私の拒否がいっさい耳に入らないようで、いよいよ取り憑かれたかのように、床を滑り一組のトランプを手にもどってきては、テーブルの前に腰を下ろし、トランプをさっくさっくと切りはじめる。束を二つに分け、それぞれの角を親指で持ち上げてから、しなりの反動を利用して、勢いよく互いちがいにバラララっと重ねあわせていく。
 それをきれいに切りなおしてから、義兄は私に向きなおった。
「いいですか、セイキヤ」
 いよいよ実演開始のようだ。
 あっ! 
 そこでようやく、私は事の全貌を理解した。なんとマヌケだったのか。妹など、はなから存在しないに決まっているではないか!
 そうであれば、一刻も早くここから抜け出さねば。このままだとどんな被害にあうかしれない。
「セイキヤ、いいですか。ジャックは10点、クイーンもキングも10点……」
 ああ、しつこい。
 義兄は私の変心も知らず、ひたすら関心を引こうとする。
「聞いてますか、セイキヤ?」
 よし、今が潮時だ。私は相手の気持ちを一気に突き放すべく、大声を出した。
「うるさい! 見たくないと言ってるだろうが!」
 私の突然の変わりように呆然とする義兄を尻目に、私はすばやく階段をどんどんと駆け下り、表通りに飛び出した。四つ辻に出たところで、後ろから追ってこないかと振りかえってみたが、男たちが家から出てくる気配はなかった。
 右も左もわからない路上に吹き出されながら、無傷で娑婆に生還した喜びを反芻し、私は前方にかすむ高層ビル群を唯一の目印に、人気のない道を歩きはじめた。
 雲ひとつない、乾いた昼下がりだった。