サラエボには40分くらい遅れて着いた。
今、駅のサテンでコーヒー(Din 150)。
Duran2[デュランデュラン]のA View to A Kill[→YouTube]が流れていて、ちょっと一息。
さて、今日も[この町に]泊まる予定はないので、23時の夜行に乗ろう。しかし、窓口のおっさんはロシア語を使えとぬかす。
おっと、[BGMは]No More Lonely Nightのロング・バージョン。列車で[車掌に]もらったミルクと今のコーヒーで、胃の中はカフェ・コン・レッチェだ。
駅舎の感じとしてはかなりヨーロッパ的。さすがはオリンピック[*2]のあった町だ。いちおう英仏独の訳が書かれている。しかし、人は自分の言葉くらいしか喋らない。
1番のトラムに乗って町に繰り出す。初めて切符の入札をする。しかし、多数の人は何もしない。[*4]
床一面にペルシャじゅうたんが敷き詰められている丸屋根と、そそり立つ尖塔。実は歩いているとこういったモスクは意外に多い。旧市街はトルコの町なのだろうか。ちょっとしたアラビアン・ナイトの世界である。
実際、川が大きく左折する対岸に開かれていた市(いち)は、まぎれもなくトルコ人[*5]のバザールだ。スカーフに頭を包んだ老婆が糸の束を売っている。
下にもどって中心部へ。土産物屋をのぞいていると、30歳くらいのおばさんが声を掛けてきた。
「パ・ルースキ?[*6]」と聞くので「ニエット」と答えながらも、何とか雰囲気で話をした。——ぼくは日本人で大阪から来ました。きれいな塔がいっぱいあるので写真も撮りました。
おばさんの質問に答えた内容をつなぐと、上のようになる[なったはず]。
そろそろ11時すぎ。疲れてきたのでレストランに入る。まあ、ふつうのおっさんが入っていくので、高い処ではないはず。入ってみるとセルフだったので大いに喜んだ。
・トラム Din 120/絵はがき Din 60
・昼メシ Din 532
(1ディナール=約0.6円)
当時のユーゴスラビア連邦では、連邦内のセルビア共和国とクロアチア共和国がそれぞれセルビア人やクロアチア人を中心に構成されたのに対し、ボスニア・ヘルツェゴビナには3民族が混在・共存していました。クロアチア人、セルビア人、ムスリム人です。「ムスリム」はご存じのようにイスラム教徒という宗教的な呼び方ですが、ボスニアでは民族が入り交じっていたため、「ムスリム人」という〈民族名〉が考案されました。ぼくが上で「トルコ人」と書いた人々は、公式にはおそらくこのムスリム人なのでしょう。なお、ムスリム人は現在では「ボシュニャク人」と呼ばれるようです。
3民族を整理すると、ざっと次のような感じです。ただし、3民族を分けることがどれだけ意味をもつのかはわかりません。
民族 | クロアチア人 | ボスニア人 (ボシュニャク人) | セルビア人 |
宗教 | カトリック | イスラム教 | セルビア正教 |
言語 | セルボ・クロアチア語 (現在は「ボスニア語」) | ||
文字 | ラテン文字 | 主にラテン文字 | キリル文字 |
ボスニア紛争後の1995年、デイトン合意により、ボスニア・ヘルツェゴビナの中に、クロアチア人とボシュニャク人を中心とする〈ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦〉と、セルビア人を中心とする〈スルプスカ(セルビア人)共和国〉という国家内国家が成立しました。
参考文献:
外務省:ボスニア・ヘルツェゴビナ
『図説 バルカンの歴史』柴 宜弘、河出書房新社(2001年), p.156
『ユーゴスラヴィア現代史』柴 宜弘、岩波書店(1996年), p.199
ウィキペディア:ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争
この旅行当時は、少なくとも外見上は平和で、何年後かに民族感情があおられて、内戦状態になるとはまったく予想できませんでした。
——それでは旅日記にもどりましょう。
[夜行で移動しようかと思ったが]やはり夜中の11時なんて待っていられない。少し高くなるが、特急でベオグラードに行くことにする。そのあとのことは知んない。
土産物屋で爪切りを買い、爪を切った。かなりさっぱりした。
・サラエボ→ベオグラードのチケット Din 2280
・爪切り Din 30
やがて、お父ちゃんがオレにウエハースを勧めてくれる。ガキに頼まれたのだという。オレはかわりにイチジクジャムのクッキー[車内用に買ってあった]をあげる。
それからガキと親しくなって、彼はトムとジェリーの小冊子を出してきて、いろいろ訳(わけ)のわからん言葉で説明してくれる。オレは「へえー」とか「そうそう」とか、適当にあいづちを打つ。
そのうちガキが何か尋ねてきた。オレが困って横のお母さんに“Do you speak English?”と尋ねても、やはりダメ。Deutsch? 首を振る。やはりダメか、と思っていると、向こうからFrançais?と聞いてきた。へえ、こんな所にもフランス語のできる人がいるのか。[フランス語はいちおう第二外国語なので]助かりだ。
彼らはサラエボでスキーをした帰りだった。
オレがガキに5円玉をやると、とても気に入ったようだった。[その後、ガキは]カエルのおもちゃで遊び始める。
ベオグラードには[夜の]9時35分着。ガキにオレの住所を教える。ガキは電話番号を教えてくれた。
しかし、そこの人たちは鬼のように親切で、わざわざベッドを空けて寝させてくれた。大したものはもっていなかったので、絵はがきを3枚あげる。
部屋のお兄さんは医者の卵。22歳。英独仏は通じず、ロシア語ができるだけ。[こちらも疲れていたし]ほとんど会話にはならなかった。
彼はセイコーの時計を持っていた。
注3の追加/2015.8.08
地図の追加/2015.8.09