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エレバンの安閑
          
エレバンで過ごした数日
1998年10月

〈 前 編 〉

 アルメニアの首都のエレバンの紀行文です。
1 謎の東洋人グループ
 窓からの明かりが届くのは、せいぜい窓際のテーブルあたりまでで、二十脚ほどのテーブルが並んだ食堂は、朝から不景気な暗さを備えていた。そのような食堂でひとり朝メシを食べているところに、
「マネージャーさんでいらっしゃいますか?」
 と、ひとりの白人女性が声をかけてきた。クセのない滑らかな英語である。
 年はどのくらいか、西洋人の年齢はなかなか推測がむずかしいが、三十前後とみるのが妥当だろうか。頭はスカーフ、下は着古しのジーンズという、いかにもアンバランスな服装である。そのジーンズにしても、小柄でずんぐりとした体形のせいか、キマっているとは言いがたく、ファッションで着ているようにはみえない。私も他人のことは言えないが、エレバンの街路をさっそうと歩く都会的な若い女性を思えば、目の前の女性は服装に無頓着で、いかにも田舎じみて見えた。
 ともあれ、
 ──マネージャー。
 とはいったい何のマネージャーか。質問の意図がつかみかねたが、しかしおよそマネージャーなどという地位には無縁の身、人違いであることはおのずと明らかである。
「いえ、旅行者(ツーリスト)ですが」
 そう応じると、女性は自分のそそっかしさを恥じ入るように、
「あ、ごめんなさい。てっきりサーカスの団長さんかと」
 と謝る。
 ホテルには、たしかに中国系の団体客が泊まっていた。
 見たところ南方系の中国人である。私の顔立ちも、どちらかといえば南方系に近いかもしれない。それでも、どうすれば私が団長と間違われるのか理解に苦しむ。ただそうは思うものの、パリやウィーンといった観光地ならともかく、東洋人などほとんど見かけないアルメニアの、観光客とてまばらな二流ホテルであれば、泊まっている東洋人がみな同じグループと思われても、あるいは無理からぬことなのかもしれない。
 かくいう私も、東洋人を見て珍しく思った口だった。先日も、団体の一員と思える三人組の女性が、昼下がりのロビーで暇そうに土産屋をひやかしているのを見かけ、ほとんど同胞を見つけたような心持ちで、
「ニーハオ! 中国の方ですか?」
 と、尋ねたのだった。アルメニアくんだりにいったい何用で来ているのか、という点にも興味を引かれた。
 三人のうちの一人が気安く答えて、
「ええ。あなたは?」
「日本人です。みなさんは、ご旅行ですか?」
「いえ《イェン・チュー》です」
「《イェン・チュー》?」
「はい」
「《イェン・チュー》って何ですか」
 単語の意味が分からなかった。「研究」だったような気もするが、違うような気もする。いずれにせよ、予想されたことではあるが、たんなる遊興に来ているのではなさそうだった。
 その次の日、私は団長と偶然に出会うことになる。団長は、私の泊まっている五階のロビーで、その階の宿直と二人で談笑していた。ロシアの伝統的なホテルでは、各階にデジュールナヤと呼ばれる宿直の女性がいて、各部屋のカギを管理している。この宿も、その形式を踏襲していた。
 あとで当のデジュールナヤと雑談した際に聞いた話では、ホテル・エレブニのデジュールナヤは、四交代制の二十四時間勤務だという。正午から次の日の正午まで勤務したあと、三日間の休みがある。時間的には自由が多い反面、体力的にはけっして楽な仕事ではないと思うのだが、自己実現という面で見れば、母語のアルメニア語と、旧ソ連時代の共通語であるロシア語でほとんどすべての用が済んでしまうアルメニアで、習った英語が活かせる職場というのは、それだけで貴重な存在にちがいない。
 その日の当番は、ややぼっちゃりとした感じの、かわいらしい女性であった。名前をジェナといった。ほかのデジュールナヤが事務的で愛想なく映ったなか、ジェナはカギの受け渡しといった些細な、しかし宿泊客にとっては大きな仕事のたび、そのふっくらとした頬に人なつっこい笑みを浮かべる。
 たしかにテヘランで泊まった宿のおばさんも愛想がよく、カギの受け渡しにも笑顔が絶えなかったが、さすがにヘジャブという黒づくめのイスラム服にくるまり、初老というべき年齢を刻んでいれば、ジェナのときのように心の弾むはずもない。それがとりもなおさず、イランとアルメニアの国情の違いを象徴していた。
 男が一座の団長であることに、私は最初まったく思い至らなかった。
 むしろ日本のビジネスマンのような風貌に目を引かれ、エレバン事情に詳しい商社マンかなにかであれば、旅行者とはまた違ったアルメニア評をもっているかもしれないと期待したのだったが、会話の合間に遠慮がちに、
「どちらからですか?」
 と英語で聞くと、男は割り込まれたのをまったく気にかけないふうに、
「中国です」
 と、にこやかに返答してみせる。
 ──なんだ、日本人ではないのか。
 ここはやはり、日本のビジネスマンが泊まるような宿ではないのだろう。
 年は四十歳半ばくらいだった。英会話に不自由のない様子を見ると、それなりの地位の人かと察せられる。男がこんどは私に問う。
「あなたは?」
「日本人です」
「ああ、そうですか」
「アルメニアにはどういう目的で?」
「*****」
 聞き取れなかった。
「コンサート?」
「いえ、*****です」
「会議(コンフェランス)?」
「いえ、*****です」
 なんど聞いても聞き取れない。私は少し考えたあげく、
「建築(アーキテクチャ)?」
 と、思いついた単語をあてずっぽうで言ってみる。
「いえ、*****ですよ。雑技団」
 男は最後に「雑技団(ツァーチートゥアン)」と中国語で付け加えた。
 ──サーカスか。
 なぜか堅い仕事だと決めつけていた。サーカスとは、まったく予想外である。
 中国らしいといえば、これほど中国らしい仕事はないかもしれない。団長は、年に二カ月ほど海外巡業に出るのだと言った。それにしても、欧米のみならず、このような旧ソ連の小国にもやってくるとは知らなかった。ビジネスの側面よりも、国家どうしの友好強化の意味あいが強いのかもしれない。
 いずれにせよ、私はこうして一座の団長と知り合うことになった。
 なお「イェン・チュー」の単語を帰国後辞書で調べてみると、どうやら中国語では「演出」と書くようで、いくつかの意味とともに、たしかに「公演」の意味が載っていた。
2 553号室
「ここ、座ってもいいですか?」
 スカーフにジーンズ姿の小太りの白人女性は、そう言って私の向かいの席を指し示した。
「ええ、どうぞ」
 ホテルの食堂に女一人で現れた彼女こそ、はたしてどういう人物か。
「どちらから来られたんですか?」
「カリフォルニアです」
 そう答えながら、頭に巻いたスカーフを取る。地元のおばさんくさい土のにおいは、どうやらそのスカーフにあったとみえ、なるほどスカーフを取ってみれば、なんということのない、ラフなジーンズ姿のごくふつうの白人バックパッカーである。
「アルメニアには一人で?」
「いえ、ここにはツアーで来たんですが、いまは一人です」
 もともとエレバンで解散するツアーだったのか、それとも途中で離脱したのかは判然としないが、せっかくカフカスくんだりにまで来たのだから、行きたいところ、見たいものを自分なりに決めて行動したいということのようだ。つい近くにある「ホテル・アルメニア」という高級ホテルから、昨日この中級ホテルに移ってきたのだという。
「私、団長さんを探しているんです」
 バックグランドを話し終わったところで、彼女はそう切り出す。彼女は名をショシャーナといった。ここからグルジアに抜けたあと、最後は親戚がいるパリからカリフォルニアに帰るのだという。しかし、女一人旅ではなにかと不安もある。サーカス一座があさってグルジアの首都トビリシに移動すると聞いたので、自分も同じバスで同行させてもらえないかと考えている、と説明した。
 ──図々しくはないか。
 という批判を恐れるかのように、ショシャーナは急いで、
「お金はちゃんと払います」 
 と付け加えた。
「団長なら五階に泊まってますよ。ただ、部屋番号までは知りません。団員の人にちょっと聞いてみます? 中国語なら少しできますし」
 との申し出に、
「あ、お願いできますか」
 と、間髪を入れずに返答する。それを受けて、私たちは隣りの区画で食事をしている団員たちのところにさっそく出向いた。朝はまだ自由時間なのか、団員は六、七人しか集まっておらず、二つのテーブルに分かれて静かに食事を取っていた。私は近いほうのテーブルに向かい、
「ニーハオ。こちらに、英語のできる人はいますか?」
 と尋ねてみる。一同は顔を見合わせたあと、ややあって一人が、
「団長ならできます」
 と答えた。
「団長さんはどちらに?」
「553号室です」
 いったい何の用かとも聞かず、家族に教えるように気安く答えてくれる。その無警戒さにかえって心が落ち着かず、むしろ私のほうから怪しい者ではないのだと説明しておきたくなる。
「みなさんはあさってグルジアに発たれると聞いたのです。この女性が、できればグルジアに一緒に行きたいと言うので」
「そうですか。やはり、団長にちょっと聞いてみてください。553号室です」
「わかりました。ありがとうございます」
 フレンドリーな対応だった。べつだん愛想のいいわけではないが、言葉のひとつひとつに人間の深さがのぞいている気がした。そのうえ、超人的な曲芸をするはずの人にしては服装も華美に走らず、むしろ地味な感じの人ばかりである。そのまま立ち去るのはどこか惜しい気になった私は、どうせショシャーナには分からないだろうと、ついでに公演予定について聞いてみる。
「公演、見たいんですけど。開演は何時ですか?」
「今日は三時と六時です」
 気のせいかもしれないが、白人社会にさまよう東洋人どうし、わずかな言葉の交換をとおして、なにか行き交うものがあったように感じた。その手応えに満足し、私は礼を言ってテーブルにもどる。そしてそのまま、団長の部屋を訪れることになる。
 残った紅茶を飲み干し、席を立つ。仕事で宿泊する団長の、おそらく一番リラックスしたいプライベートな時間に、突然部屋を訪ねるのはいかがなものかとも思われたが、ショシャーナは一人旅の不安がどうしても先に立つとみえ、すぐにでも団長と話しをしたそうで落ち着かない。私も行きがかり上、「あとはお好きに」と放っておくわけにいかず、二人で五階まで上がった。
 553号室のドアをノックする。ややあって、頭をぼさぼさにした団長がパジャマ姿で現れた。
 ──朝から申し訳ない。
 と内心謝りつつ、ショシャーナがトビリシまで同行したい旨を伝える。団長は英語ができるので、あとはショシャーナが引き取った。団長はよほど人間ができているのか、あるいは商売柄か、朝っぱらの突然の訪問にもイヤな顔をみせず、言葉つきもおだやかに、しかしバスでの同行そのものについては、
「悪いですが、他の人は乗せられんのです」
 と明言した。
「お金は払います」
 ショシャーナは、誤解のないようにと釈明しながら、やんわり再考を促す。
「しかし、他の人は乗せられないんですよ」
 定員の問題か、手続き上の問題か、理由は定かではないものの、やわらかな調子とはうらはらに、団長の答えは決然としていた。ショシャーナも自分の立場は心得ており、あえて理由は問わない。
「わかりました」
「せっかくなのに申し訳ない」
 団長は同情気味な表情のまま、ドアの奥に引っ込んだ。
「あなたの予定は?」
 ショシャーナの矛先は、つぎにこちらに向かってくる。
「あしたの夜行列車でトビリシに向かうつもり」
「列車よりバスのほうが速いじゃない」
 おそらく、それは彼女の言うとおりだった。
 グルジアの首都トビリシは、ここエレバンから見れば東北の方角にある。バスだと国境まで北上し、そこから北東に向かう。地図で見るかぎり、おおよそ最短のコースである。それに対し、鉄路はアルメニアの南東部をおおきく迂回してゆく。単純に距離で比較すれば、バスより時間のかかることが予想された。
 そもそも私が列車で行こうと考えたのは、テヘランからの長距離バスでかなり疲れたのと、エレバンに夜中に着いたため、宿探しに苦労し、
 ──バスの旅はしばらく遠慮したい。
 と痛感したことによる。そのうえトビリシ行きの列車は夜行のため、トビリシに午前中着けるという点もポイントが高い。しかしそのような判断も、エレバン到着から六日が経ち、体力・精神面での抵抗力が回復するにつれ、しだいに意味あいが薄れてくる。列車にこだわる理由はない、と思うようになってくる。じっさいのところ、列車よりバスのほうが楽なのかもしれなかった。
 私の気持ちは、こうして次第にバスへと傾いていく。
 ショシャーナは、サーカス一座のバスがだめなら、同じ日に出る公共バスを使うと言っていた。バスだとトビリシに着くのが夕方になるが、ここに到着したのが深夜だったことを思えば条件ははるかにいい。なにより、ショシャーナがロシア語を話せる点が心強い。アルメニアでは英語がほとんど通用しないが、同じことはおそらくグルジアでも予想されるため、ロシア語の分かる連れがいるというのは、とてもありがたいことだった。
「もし日曜のバスで行くんなら、あなたの分のチケットも買ってきますよ」
 その言葉で決まった。
 バスの手配をショシャーナにまかせ、私はグルジアのビザを取りに行くことにした。