エレバンの安閑
エレバンで過ごした数日
1998年10月
〈 後 編 〉
次の国グルジアのためにビザを取りに行きます。
▼3 グルジア大使館
午後の太陽に白く照らされた、共和国広場の噴水から歩いてほんの二、三分の距離にある大通り沿いを歩いてみるが、大使館など影も形もない。手元の「スーパーマップ」によると、そのあたりにグルジア大使館があるはずだった。おとついの午後遅くのことである。
──やはり。
変だとは思っていた。
ふつうこのような一等地に、大使館はない。羽振りのいい金満国ならともかく、政治不安と内戦で経済が大打撃を受けたグルジアの大使館が立つ場所とは思えない。それでも見落としがあってはいけないと、あるいは製作者の勘違いがあるやもしれぬと、大通りの北から南、交差点の界隈をも歩いてみたが、やはり見つけることはできなかった。
アルメニアから陸路で出国しようとすれば、イランのビザがない以上、どうしてもグルジアに出ることになる。アルメニアはトルコと国境を接しているが、両国の関係は十九世紀末あたりからとくに険悪であり、いまだにトルコとの国境は開いていない。
じつは、アルメニアのビザを持っていれば、グルジアにトランジット入国することができるという情報がある。しかし未使用のビザならともかく、すでに使ったビザがはたして有効なのかどうか、いまひとつ頼りなかった。それを確かめるにも、やはり大使館に行くことが必要なのである。
──しかし、どこから当たるか。
大きく傾きかけた太陽に、レンガ壁は少しずつ赤の色を強め、それとともに気温の下がってきた歩道をとぼとぼと歩きつつ、考えを巡らせる。
──やはり国連か。
それが一番確実な気がする。
場所なら分かっていた。偶然にも、私が泊まっているホテル・エレブニのすぐ横に、国連旗をあげた建物がある。国連のどういう組織なのかは不明だが、国連旗を高々とあげている以上、公共的な場所にちがいなかった。ただ、一介の旅行者がいきなり訪れて、職員がはたしてどこまで応じてくれるか。それでも、大使館の場所くらいは分かりそうに思われる。少なくとも、なにがしかのアドバイスにはありつけるだろう。いや、ありつかねばならない。
楽観的な希望と一抹の不安が、上になり下になりしながら交代するなか、すでに何度も通ったホテル前の道を通り抜けて、国連旗のあがる建物をめざす。
──建物の中に入ってからが勝負だ。
取り次ぎの人間が、要領よく処理してくれるかどうかが問題である。また、相手が要領を得ない場合、こちらの意図をしっかり伝えられるかどうか。
作戦が完成しないまま建物に近づいていくと、いかにも幸いなことに、職員と思われる男が三人ばかり、前庭の駐車場で立ち話をしているのが見えた。これなら声もかけやすい。私はさりげなく近づいてみる。
「すみません。英語は話せますか?」
国連の人には失礼な聞き方かもしれないが、こう切り出したほうが、英語が通じなくて困っているこちらの事情が伝わると思った。
「ええ」
一人がそう答え、私に次の言葉を促す。
──はたして大使館の場所が分かるのか。
希望がつながるか、落胆が拡大するか、分かれ目の一瞬である。私は、覚悟をきめて質問する。
「グルジア大使館を探しているのですが」
「グルジア大使館ですか。それなら近いですよ」
え、本当か? にわかには信じられなかった。つい先ほどまでは、ひとり大海に投げ出されたような、茫漠とした思いに沈んでいた。それがいまは、場所が分かりそうなだけでなく、めざす場所は近いという。いったい事がそう簡単に運んでいいものだろうか。期待させておいて、あとになって、じつは勘違いでした、といったお粗末だけは勘弁願いたい。そのような思いをよそに、職員は説明を続ける。
「ピッツァ・ディ・ローマは分かりますか」
「ええ、分かります」
共和国広場の少し先にある、スパゲティー屋である。
「その先で××通りと交わるので、その角を左に曲がります。そこから百メートルほど進んだところです」
──そんな近くにあったのか。
歩いて五分の距離である。ピッツァ・ディ・ローマの前ならよく通っているが、××通りには入ったことがなかった。灯台もと暗し。
「ありがとうございます」
思わず笑顔がもどってくる。
すでに夕方の七時である。門は閉まっているだろうが、大使館をこの目で確かめておきたく、私はピッツァ・ディ・ローマの角を曲がり、教えられた場所に行ってみた。そこにはグルジアとおぼしき国旗を掲げた大使館がたしかに建っていた。
それが、おとついの夕方のことであった。
ショシャーナと別れた私は、グルジア大使館に向かう。門の左奥に、踏切小屋よりはいくらかマシといった程度の小さな番所が置かれ、中で門衛がヒマそうに座っていた。
「ビザがほしいんですが」
そう告げると、門衛は入れと館内の方向を示す。
廊下には、誰もいなかった。
モニターか何かで監視されているのかもしれないが、少なくとも見張られている雰囲気はない。不用心な印象はあるが、脳天気な旅行者には入りやすくてうれしい。政治対立がいまだくすぶっている国にしては、
──なんともオープンな。
と、意外な気もする。
短い廊下を、人のいそうな部屋を探して進む。一番奥の部屋の扉が開いていた。
正面にでんと据えた事務机の向こうに、立派な制服に身を包んだ偉そうな顔の男が、電話口にむかって野太い声を放つ。
──これが大使なのだろうか。
口ひげが、ともすれば威厳よりむしろ滑稽さを増長させ、どこか大器になりきれない、卑小な小役人づらを作っている。
電話を待つあいだ、私は廊下に立って、突き当たりにある台所を何心なく眺めた。流し台を真ん中にシステムキッチンが構成され、脇に電子レンジ、冷蔵庫、コーヒーメーカーといった電化製品が並ぶ。そこに、どこからともなく掃除のおばさんが現れて、床のモップ掛けを始める。大使館の台所には、どこか小春日和の縁側のような、のどやかな空気が流れていた。
たとえば……仕事の合間に台所に立ち、コーヒーメーカーからコーヒーを注ぎ、それをちびちびと味わいながら、満足げな笑みをもらす小役人。ささやかな、やすらぎのひととき──。
インスタント・コーヒーのCMに出てきそうな、そんな場面が想像された。いくらか隠居じみたその光景は、あながち空想とも思えず、むしろあの部屋の主(あるじ)には似つかわしいと、私は微笑ましい気持ちになる。いかめしいその男に、どことなく親しみのような感情が湧く。
扉の奥で電話の声がやんだ。
私はおもむろに部屋に入り、ビザがほしい旨を伝える。大使らしき小役人は、机の上にストックされた申請用紙から一番上の一枚を取り、それを私に手渡した。必要事項を記入して、申請料の二十ドルとともに提出すると、おそらくは英語が不得意だからか、部屋の主は一言、
「今日の六時」
と言うなり、机の書類に目をもどした。
▼4 マテナダラン
──六時か。
グルジア大使館に来る道々、今日は昼間に近郊の町を見物し、夕方には戻って六時開演のサーカスを見ようと考えていた。しかし六時にビザを取りに来たのでは、サーカスの開演に間に合わない。明日は土曜日なので、ビザは今日中に受け取っておく必要があった。
仕方がない。
近郊の町に行くのはキャンセルだ。そしてサーカスを三時の部に繰り上げである。
そうすると、今度は三時までの時間にぽっかりと空白があく。私は先にサーカス劇場の下見をすることにした。
あとでわかったことだったが、当のサーカス劇場は、手元の「スーパーマップ」に載っていたのだった。しかしこのときはそれとも知らず、ショシャーナの、いまひとつ明瞭さに欠ける説明が唯一の手がかりだと思っていた。しかも、ショシャーナは通りの名前さえおぼつかなく、ただ、これこれこういう形の建物のところで右に曲がって……、といったきわめて頼りのない説明をするばかりである。それでも、行けばぜったいにわかるからとの自信ありげな調子に、こちらもあえてそれ以上の説明は求めなかった。
エレバンには、賑やかな界隈がいくつかある。
サーカス劇場のあたりも、比較的人の多い場所になっている。「ゾラヴァル・アンドラニワ」という、何度聞いても覚えられそうにない地下鉄駅の周辺が、とりわけ賑やかである。路面電車や市バスが行き過ぎる大きな交差点の角には、クイーン・バーガーというファースト・フードの店があって、夜になると、床から天井まである大きなガラス窓の中に、明々と電灯の灯っているのが見える。ちょっと見たところ、店の奥にカウンターがあり、手前側には作りつけのテーブルがずらりと並び、ファーストフードのおきまりのスタイルを踏襲していた。
交差点では、信号が変わるのを待ちかねて停留所に駆け込む太ったおばさんや、右左折の車を慎重に見過ごすお婆さんの姿もある。サーカス劇場は、そのような殷賑(いんしん)の交差点から、三、四分西に歩いた北側のブロックにあった。
円筒形の建物の上に「ЦИРК」(ツィルク:サーカスの意)の文字が見える。サーカスはロシア語でツィルクというのだと、出かける前にショシャーナから教わっていたおかげで、それがサーカス劇場だということが分かった。途中、多少は迷いもしたが、下見の目的はなんとか達せられた。
午後は「マテナダラン」と呼ばれる古文書の研究所兼博物館を訪れた。
アルメニアという地名は、日本人には聞き慣れないながら、その歴史はかなり古いようである。アルメニア人たちがいつごろアルメニアの地にやってきたかは諸説あって定かではないが、紀元前550年にペルシャ帝国が生まれたとき、アルメニア人の祖先はすでに先住民との混血をあらかた完了し、ひとつの民族を形作っていたらしい。さらに五世紀には、独特の形をもったアルメニア文字が作られている。五世紀といえば、聖徳太子よりもざっと百年は古い。雄略天皇の時代である。そういう時代に、ギリシャ語の聖書などがすでにアルメニア語に翻訳されている。歴史文化の深さという点では、西欧などは及びもしない。マテナダランでは、そのような聖書をはじめとする古文書が、二階の一室に展示されていた。
広い部屋ではない。
壁に張り付けたガラスケースと、部屋の中央に設けたガラスケースに収めたものが、展示品のすべてである。それでも一点一点感心しながら、見開きになった左右のページに並ぶ意味不明の文字に見入り、反時計回りにゆっくりと見学を進めると、小一時間はかかる。やがておおかたの展示品を見てしまったところに、社会見学らしい小学生の一群がどやどやと入室してきた。背格好や顔立ちからみて、低学年から高学年まで、生徒全員の総出でやってきたというおもむきであった。
静閑とした展示室いっぱいに、思慮のないどよめきが交錯する。
さまざまな古文書を前に古代のアルメニアに心が飛んでいた私は、室内の騒がしさに眉をひそめはしたが、いたって無邪気な子どもたちを見れば彼らを責める道理はなく、いかにもタイミングが悪いと思うしかない。
無邪気さはまた、遠慮のなさに直結する。
エレバンではいつもそうだったが、とりわけ子どもたちは東洋人がよほど珍しいとみえて、好奇の視線をまっすぐに投げてくる。あるときなど、路上を行く幼い姉が私に気づき、わざわざ弟に教えて振り向かせる場面もあった。いま目の前にわらわらと散らばる三十人ばかりの子どもにしても、ことあるごとに、ちらりちらりとこちらを盗み見る。そのくせ、たまに目が合うとすっと視線をはずして逃げる。笑いかけても反応がない。まったく、
──可愛げがない。
と思わずにいられない。東南アジアなどとは、大きく勝手が違うのである。
そのようななか、おそらく生徒のリクエストに押された形で、引率の先生らしき若い女性が私のそばに来て問うた。
「お名前は?」
「キタガワ」
すかざす何人かが、「キタガワ」と復唱する。
「どちらから?」
「日本」
「日本のどちら?」
「大阪」
やはり何人かが「オオサカ」と繰り返す。
先生は、
「私たち、郊外の学校から来たもので……。子どもたちは珍しいのです」
と、少しいいわけめいたことを言った。
生徒たちは、私がごくふつうに応対するのに勢いを得て、先生に引きつづき通訳をねだる素振りをみせる。しかし先生は、英語が苦手なのか、私への遠慮なのか、どうもその両方のような気もするのだが、それ以上尋ねてはこなかった。私は、生徒であふれる展示室をふたたびゆっくりと巡る。
五、六年生くらいだろうか、生徒のなかに一人、ませた感じのチャーミングな女の子がいた。視線が何度か合う。他の子どもとは違い、私の視線から逃げることもせず、正面から受けとめる。
──写真に収めてみたい。
アルメニアに来て、一番印象的な被写体に出会ったと思った。
しかし、これほど大勢の生徒のなかで、彼女にだけレンズを向けるようなエコヒイキは好ましくないはずだった。もっと広い場所で、しかも行きずりに出会ったのならまだしも、いまは限られた部屋にいて、多くの生徒たちの視線にさらされている。何かのきっかけを期待しながらも、私は諦めるしかなさそうな予感に包まれる。
なにより、時間がすでに二時に迫ろうとしていた。
──そろそろ行かなければ。
サーカスは三時開演だが、まだチケットを買っていない。
すんなり買えるとも思えないので、早めに着いておきたかった。少女のことは心残りだが、やはりサーカスとの縁はおざなりにしがたく、そろそろ展示室を出ることにした。
私は展示室の出入口に向かいながら、誰に言うともなく「バイバイ」と手を振る。近くにいた子どもらが「バイバイ」と応じる。生徒たちもそろそろ帰ろうかという頃合であった。建物の出入口を出て振り返ってみる。生徒たちも、出入口にむかってぞろぞろやってくる。名残惜しい心持ちは消しがたいが、サーカスの開演も逃せない。私はそのまま、前庭を抜ける。
高台に建つマテナダランの下を、市街にむかってだらだらと下る、長くまっすぐな坂道を降りながら、私はいま一度振り返ってみる。テラス状にせりだしたマテナダランの前庭から、二、三十人の子どもたちが、身を乗り出すようにしてこちらを見ていた。
私は大きく手を振る。
子どもたちもうれしそうに手を振り返した。アルメニアの美少女もそのなかにいた。
私のなかで、何かがパンッと弾けた気がした。アルメニアに来てもなお解けずに残っていたアジアの薄い壁が、ようやくいま決然と破裂し、エレバンの高い空に霧散していくのだと思った。
私は前に向きなおり、地下鉄の駅をめざして道を急いだ。