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 2015年秋 
異邦人のニューヨーク
 
4公園近くのレストラン
 (2日目)
写真
 木もれ日がさらさらと風にゆらめいた。
 ハンガリー系の本屋からアベニューAを南に下ると、徐々に視界が開けてくる。東10thストリートとの角まで来ると、緑の多い公園が出現した。トンプキンス・スクエアというようだ。京都の10月末ならどことも行楽客であふれているが、平日の昼間ということもあり、この公園は人がまばらだ。
 先ほどの本屋第3話 参照)を出たあと、次はどこに行くか少し迷ったのだが、朝からの移動がじわりと体に効いてきたので、徒歩圏内のレストランに行くことに決めたのだった。何よりこの上天気に地下に潜ることが、温泉地に来て温泉に入らないくらいの不運に思え、風のひとそよぎすら逃したくないとばかり、愚直に地上を歩く。
 公園の北の端に沿って街路を進み、大通りとの角をL字に折れると、今度はアベニューBを南下する。そこは公園の東の端を成していて、公園の木々を右手に見ながら歩くことになる。ほどなくして公園が終わると、まるで束の間の夢から覚めたかのように、再びビル街の谷に入る。ビル街といっても建物はせいぜい6、7階どまりで、道幅も広いので、窮屈な感じはしない。むしろ十分に開放的で、ビルの赤レンガがクラシックな落ち着きを添えている。
 目指すレストランはすぐにわかった〈オダ・ハウス〉という名前のグルジア料理屋だ。グルジア料理にまったく疎いこともあり、料理を求めて来たというよりも、いったいどんな店なのか興味本位で見に来たというほうが正しい。どのみち10時半のブランチがまだ腹に残っているので、飲み物だけにするつもりである。
 通りから見たところ客はひとりもいない。これが夕飯時ならおそらく入るのをやめただろうが、午後2時台という合間の時間帯なら仕方もない。自分で自分の背中を押してドアを開ける。
 カウンターの奥に30代くらいの男がいた。高級な場所ではないが、大衆的でもなく、どちらかといえば上品な内装で、同好者が夜や週末に楽しみ集う類いの店に見える。なお、グルジアという呼び名は最近ジョージアに変わったが、どうもまだ慣れないので、ここでは従来のようにグルジアの呼び名を使わせてもらうことにする。
 メニューに載っている Georgian sparking mineral water が私の目を引いた。せっかくの休憩なので無難なドリンクにするのが堅実だったが、グルジアの炭酸水への興味は捨て去りがたく、冒険はするなという内なる声がするたびに、この機会を逃せば飲むチャンスは永遠に失われるぞ、という別の声がする。葛藤はあっさり後者が勝ち、いくつかフレーバーがあるなかから洋梨味を選んだ。
 グルジアのガス入りミネラルウォーターでは〈ボルジョミ〉が代表的だ。ただ、溶けているミネラルの種類によるのか、やや味にクセがあって私はあまり好きではない。メニューにボルジョミの文字はないので、違う商品であることを期待した。味は飲んでのお楽しみである。
 ディナータイムに向けて店内を整える時間帯なのか、男はカウンターの掃除に忙しそうだった。注文のとき、
「グルジアの方ですか?」
「そうです」
「グルジアに行ったことありますよ」
のような短いやりとりをしたが、口角を少し上げたのがせめてもの親愛の印であるのか、先ほどの本屋のような、あるいは昨日のコーヒーショップのような、連続した会話には発展しない。グルジアの男はもともと初対面の人間に対して無口な印象があることを思い出した。シャイと言っていいかもしれない。
 頼んだ飲み物はすぐに運ばれてきた。小ビンのラベルに英字で「ナタフタリ NATAKHTARI」と印刷されている。グラスに注ぐと、色鮮やかな、いっそ毒々しい緑色の液体がグラスにたまっていく。理科の実験で見たマンガンか何かの水溶液がたしかこんな色だったような記憶がある。
 少し飲んでみると、洋梨味と銘打つだけあって、ほのかに甘く薄い味がついている。が、飲んだことのない味だ。けっしてマズくはないが、雲をつかむような、とらえどころのない味である。おそらくミネラルと人工香料の味が混ざっているのだろう。グルジアの人にはこの味がどう感じられるのか、気になるところである。
 厨房からはときおり人の声がしていた。2、3人いそうに思えるが、初老の女性が一度出てきた以外は姿形が見えない。トイレがちょうど厨房の前にあり、トイレに行って出てきたときに、通路の洗面台に若い女性が立っていた。堂々とした姿から若奥さんかと思われた。
 ——ガマルヂョバ。
 あいさつをすると、若奥さんは虚をつかれたように黙っている。蛇足ながら、パントマイムのデュオに「が〜まるちょば」がいるが、あれはグルジア語の〈こんにちは〉から来ている。
 予期せず開いた間を取り繕うように、グルジアの方ですかと、続けてグルジア語で尋ねると、そのようであった。グルジア語の教科書の1ページ目に載っているような基本文だが、通じるとうれしいものだ。この人が若奥さんで、カウンターの男が店主、そして先ほど見た初老の女性が大奥さん、というのが妥当な見立てだろう。
 いったい店主の趣味か、それとも女性陣のセンスなのか、店内は壁の上半分をオレンジ色に統一し、天井には蜘蛛の糸がからまり、蜘蛛の巣からは蜘蛛が垂れ下がっている。そして店の入口には小さな魔女。なかなか凝ったハロウィン仕様である。SNSにでも載せるのか、店主は小さなデジカメを構えて全景を撮ったり、イスに乗って天井から宙づりになった蜘蛛をアップで撮ったりしている。
 3時近くになって女性の3人連れが入ってきた。店主がメニューを手渡すと、店内は急に店らしく動き始める。私のテーブルでは緑色のミネラルウォーターがまだコップに残っているが、このあとの予定もあり、そろそろ店を出ることにする。
 飲み物の料金が4.5ドルで、これにいくらか税金が加算される。細かい計算が面倒なので、チップ込みで5ドルを渡す。私の存在に慣れたのか、いつもの流儀なのか、店主は初めて親しげな笑顔を見せた。
2016.2.08 記)

グルジア位置関係図(GoogleMapを加工

注文した炭酸水

入口側の様子
〈店舗情報〉
グルジア料理屋
Oda House サイト
略図

(GoogleMap)
〈商品概要〉
炭酸水 Natakhtari Lemonade