朝9時前に宿を出る。朝食の店の候補は何軒かあったが、後の予定との兼ね合いから、ブルックリンのウィリアムズバーグと呼ばれるエリアにある、ローブリング・ティールームに行くことにする。
他の多くの地下鉄線と同様、Q線は郊外で地上を走る。午前の明るい車内は、東京や大阪の近郊電車とさほど違わない。周囲をさりげなく見渡した印象では、スマホをさわっている人がざっと3割程度、軽く居眠りをしている人もいるにはいる。
斜め前に座る若い男は、頭頂に小さなユダヤ帽を載せている。キッパというのだろうか、手のひらほどの大きさの、丸いかぶり物である。カトリックのローマ法王も、これと似たような帽子をかぶっていた気がする。読んでいる雑誌がこれまた全面ヘブライ文字なのを見ると、やはりユダヤ人なのだろう。たしかに一見奇異な印象を受けはするが、そこは人種のるつぼニューヨーク、多様な人がいて当然だという気になる。本当の都会とは、貧富も善悪も清濁も、あるいは思想も言語も、一切合切を飲み込んでしまう場所なのかもしれない。
G線に乗り換えてメトロポリタン駅で降りる。
大通り沿いを10分ほど歩くと店に着いたが、残念ながらブランチは土日のみで、平日は11時半の開店だった。いい具合に腹がへっていたのに、他を探すしかない。
N 7thストリートをイーストリバーの方向に歩くと、地下鉄駅の近くにブランチの看板を出す店がある。ポスター大の黒板に目玉メニューが白いチョークで優美にデザインされている。本当はベーコンやら卵やらポテトやらのふつうの朝食がよかったのだが、ブルーベリージャムのパンケーキも悪くはない。空腹にせかされるように、Stationという名のカフェバーに入った。
ブランチを済ませたあと、近くのショップを2軒のぞいてから地下鉄L線に乗る。L線はイーストリバーを一直線に西に横切り、マンハッタンで再び地下に潜る。私はマンハッタン側の最初の駅、1stアベニュー駅で電車を降りる。このあたりはイーストビレッジと呼ばれるエリアだ。大通りから中に入ると、建物はせいぜい6、7階建てで道幅も広く、人の往来も少ない。突き抜けるような秋の空気が、まるで固めた透明ゼリーのように、正午過ぎの街を涼やかに満たしていた。
1ブロック東に歩いた大通りの角に、見慣れたセブンイレブンの店が現れた。ニューヨークに来てわずか2日目の午後に言うのも何だが、マンハッタンのように世界の都会の頂点に立つほどの街でも、〈デリ〉と呼ばれるノーブランドの個人商店が多く、日本を始め中国や東南アジアにあふれる「コンビニ」は意外と少ない。アメリカで生まれたセブンイレブンが逆に日本の風景と化していて、不思議な郷愁を呼び起こされた。
アベニューA沿いに建つセブンイレブン
セブンイレブンの少し先に、目指す本屋〈テン・サウザンド・ステップス/10 Thousand Steps〉がある。一万歩という意味の風変わりな店名だ。事前に写真で見たとおりの狭い店で、ふつうのアパートメント(アメリカだからフラットというべきか)の半地下にある。
ちょうど入口の脇におじさんが立っていたので、「ヨーナポット Jó napot!」と声を掛けて階段を降りる。マジャール語(ハンガリー語)の〈こんにちは〉である。マジャール語は最初の音が高く、ヨーナポットは長音で始まる3音節なので、言葉のリズムと高低は日本語の「ようこそ」に似ている。
このおじさんが店主その人のようで、私に「ヨーナポット!」と返したあと、私が中に入るのを追って階段を降りてくる。昨日訪れたコーヒーショップに続いて、ここの店主もハンガリー出身なのである。街角のコーヒーショップなら店主がどこの人であろうと商品自体に大差はないが、本屋では品揃えが大きく変わってくる。いったいどういう本を売っているのか、そこに大きな関心があった。
入口を入った左が「本屋」だった。パソコンが載ったデスクが部屋の奥に据えてあるほかは、本がびっしり詰まった書架が壁に沿って並ぶばかり。知らずに入って来たら、個人の書斎だと思って慌てて出て行くかもしれない。
デスクの向かいにある書架がどうやら新刊などを売るメインのコーナーのようだ。ずらりと並ぶ背表紙は当然ながらすべて横文字で、目まいがする。しかも文字が90度回転しているので読みづらい。それでも目線の高さにあるタイトルをいくつか見ていくと、ハンガリー文化を論じたような本がある。テーマとしては面白そうだが、中を開くとどのページも黒々とした文字で埋まっている。まじめな本のようだ。写真やイラストが豊富にあって、見ればわかるようなハンガリー文化の入門書などがあればいいのだが、そういう安直な本はなさそうだった。私のようなハンガリー初心者が来る店ではないのかもしれない。
このまま手ぶらで帰るのも寂しいので、5ドルの薄い会話集を買った。
そのあと店主と少し言葉を交わした。このような半地下の、書斎みたいな本屋では経営が成り立たないのは一目瞭然で、主にハンガリー系の人たちを相手に、どこか別の場所であれこれイベントを開いているようだった。滞在が長ければ多少詳しく知りたい気もするが、今日を含めて残り4日の滞在とあれば、おのずとスルーすることになる。
最初のマジャール語のあいさつでハンガリーに縁がありそうな奴だと思ってもらえたのか、あるいは一人で店番をしていてたんに暇だったのか、いずれにせよ、いきなり訪れた旅行者にあれこれ話をしてくれるのはうれしい。ただ、店主はアメリカ生活が長いのか、英語を手加減なく喋ってくるので聞き取れない部分も多かった。もちろんそれは私の英語力のなさが原因なのだが。
明日がちょうどハロウィンなので、店主は親切にもハロウィンパレードについて教えてくれる。夜7時に6thアベニューのどことかに行けばいいという。現場は怒濤の人だろうから、どこか人が少なそうな場所を探してもいいかもしれない。
——今日は天気がいいし、××あたりを歩くのもよさそうですよ。
話題が変わったのを潮に、店主に別れを告げる。昼間から電灯に頼る半地下の本屋から階段をとんとんと上り、晴れやかな秋の午後へと踏み出した。
(2016.1.31 記)
本屋の入口。階段を数段おりる
西側から見た入口と周囲の様子