石塔の周りをぐるりと一回りしてから本堂に向かう。
行楽日和の日曜日とあって多くの人が出入りする。この時期にしてはかなり暖かく、お堂の縁側で陰に入って休む人もいる。
再びパンフレットを見ると本堂の建立は意外と新しく、1667年とある。新しいといっても石塔や本尊と比べての話であり、江戸初期なら十分に古い。念のため手近な年表を開いてみると、4代将軍家綱の時代であった。九州で島原の乱が鎮圧され、天草四郎が落命するのが江戸時代の初めだから、真偽はともかく、美輪明宏の前世とほぼ同時代ということになる──。
いずれにせよ、江戸初期に造られた木造の建築が元禄・文化文政の世を過ごし、維新を生き抜き、二度の大戦をやりすごし、積年の風雨に耐えて目の前に立っていることに軽い驚きを感じる。
右側の戸口から堂内に入る。
正面に見えるのが──すなわち堂宇の一番右でぎらついているのが──不動明王座像である。あらゆる邪悪を追放しようと満身からエネルギーを放出し、文字どおり怒髪天を衝く。
仏教にはさまざまな役割を担ったホトケがいる。
密教では万物の中心に大日如来がおわしまし、その大日如来が、悪を退治し衆生を救うために遣わす使者が明王である。大日如来が親しく姿を現さず、使者の姿を借りるという点に、いにしえ人のぬぐえない階級意識がみえて興味深い。
そして明王のなかでおそらく日本で最もポピュラーなのが不動明王だ。成田山のような大寺から法善寺の水掛不動まで、不動尊は各地に派遣されている。このあたりのことは『観音・地蔵・不動』(講談社現代新書1326)に詳しい。
鋭い眼光で威圧し、全身からエネルギーを放散する明王像が私は好きである。
本堂を中央に進むと、般若寺の本尊である文殊菩薩像が置かれている。さすがにご本尊ともなると木の厨子(ずし)の中に奉安され、格の違いを見せつける。
文殊菩薩に向かって唱えるべき真言というのが厨子の前に貼ってある。篤信家なら5回や7回は声に出して念誦(ねんじゅ)するのだろうが、こちらは心中で念じるのも面倒なほど不信心ときた。しかも前の参拝客らが何事かを長々と唱えながら手を合わせるのを待ちきれず、賽銭箱にコインを1枚滑らせただけで満足し、多少の後ろめたさをひきずりながらも参拝客らを追い越した。
パンフレットによると、菩薩像は1324年に慶派仏師康俊が作ったとある。慶派とはおそらく運慶の流れをくむ人たちのことを言うのだろう。時代的には政治の実権が鎌倉からそろそろ京都に戻ろうかという乱世である。はたして遠く都の騒擾(そうじょう)は、土塀を越えてここまで届いたのだろうか。
午後1時の太陽がやんわりとコスモスを照らしていた。
それに甘えるように何百、何千、あるいは何万というコスモスが自由奔放に枝を伸ばす。私はTシャツ一枚で庭に降り、そのまま本堂の裏手に回ってみる。急に人気が途絶えたお堂の陰で、朽ちかけたベンチに座って2人の老人がくつろいでいた。
中庭に戻るとシルエットになった石宝塔が、花々に囲まれて黙然と立っていた。青く高くさえる秋空に心がふんわりと浮揚するような心地になり、私はこの平和な光景を心の引き出しに収めようと静かにシャッターを切った。
猛スピードで流転する現実世界の底で、ふとこの日だまりだけはこのまま何十年も何百年も続くような錯覚に陥った。
(終わり)