なるほどコスモス寺と呼ばれるだけあって、国宝の楼門前に残された前庭の、舗装路に面したわずかな土地にさえ、まるで境内から追いやられ、そこが最後の陣地だとでもいうように、薄紅のコスモスが背を伸ばす。
駅から同じバスに乗ってきた中年の一群は、ぞろぞろと群れながら、一足先に境内に入っていった。
「こんにちは」
受付の若い女性の声がほがらかに降りかかる。
この寺は飛鳥時代に開創された古刹中の古刹でありながら、一方ではコスモス寺として多くの観光客を受け入れる。格式ある寺の受付といえば、どうしても無愛想なおやじが無言でチケットをぬっと差し出すイメージが浮かんでしまうが、あにはからんや、学園祭の受付のような明るさに意表を突かれ、あわてて不景気面を収めながら「こんにちは」と返す。
400円の拝観料を払って楼門を抜ける。
行く者と帰る者が入口近くでわだかまりながら、記念写真に忙しかった。石塔に向かって70mほどの細い道が一直線にしらじらと伸び、その両側にびっしりとコスモスが植わっている。文字どおり花道だったが、人物がいてこそ華やぐ構図だった。
広い境内ではない。中庭の入口に立てばすべてを見渡すことができる。その中庭の通路の両側、石塔の周り、本堂の前がコスモスで埋まり、淡い薄紅色を中心に、凛とした孤高の白、大人びた憂いの深紅、そして南国的で陽気な黄色の花弁が、あちらに伸び、こちらで絡まり、ときおり渡る風にざわざわと色めきたつ。コスモスを蓮に置き換えれば、ちょうどベトナムあたりの古寺になりそうな趣きである。
中庭の真ん中に石塔が建っている。
正確には十三重石宝塔という。その名のとおり石の板を13段重ね、さらにその上に細く尖った相輪を載せていた。相輪とは仏塔の上に載せられる細長い構造品をいうらしい。
これだけ石を積み重ねるとさすがに重量感がある。高さは14.2 mという。地面の裏側から地上に向かってこの土地をピン止めしたかのようで、寺のシンボルとしていかにも不動である。しかし限りなく地味でもあった。人でいえば野球部にいる五分刈りで細身の中学生のように、純粋だが朴念仁で、愛想がない。鎌倉時代の建立というから、武士の気風を反映しているのかもしれない。
存在感はある。
いかにも自分が主役とばかり、庭のど真ん中で高らかに自己主張する。いったい何者なのかといぶかり、手元のパンフレットを開いてみると、仏舎利(ぶっしゃり)を祀る仏塔とあった。仏舎利とは、お釈迦様の遺骨や遺灰のことだ。
なるほど仏舎利を納めた塔なら舞台の中心に奉られていても不思議はない。はたしてそれが正真の仏舎利かという疑問もないではないが、大切なのは信じる力であり、さらにいえば民衆を信じさせる力である。
考えてみれば仏像ができるのはガンダーラ以降だというから、仏像が作られる前はおそらく仏舎利が信仰を集めていたのだろう。ビルマ(ミャンマー)のパゴダはまさに仏塔が中心にあり、その周囲に仏像や僧坊が付き従う格好になっている。
無粋と思えた鈍重な石塔だったが、じつは仏舎利を奉納する宝塔であり、はるか古代の遺風を現代に運んでくれていたのだった。塔の四方は薬師、阿弥陀、釈迦、弥勒の四仏によって守られ、さらにその外側でコスモスが揺れる。塔の底からブッダの鋭気がゆらゆらと立ち上る風情であった。