旅行記 Index   ロゴ
                  
ペルシャは今日も油過多ぶら
                  
イラン初心者のテヘラン一日游
1998年9月

〈 前 編 〉

1 到 着
 夢かうつつか、半ば眠りながら夜行便を降り、そのまま人の流れにそって早朝のターミナルをふらふらと、なんの思慮もなくたどり着いた先には、三列に分かれた入国審査の列があった。すぐ後ろに、イラン人の男がいる。
 この男とは、クアラルンプールの待合い室で知り合ったのだった。
 年のころは四十前後だろうか。スポーツ刈りに短く刈った頭のせいで、いくぶん若くは見えたかもしれない。機内では互いに席が離れていたのに、なんのはずみか、飛行機に乗り込むなりサービス精神を発揮し、搭乗のごたごたにまぎれて確保した連席が一組、すかさず私を呼び寄せて、仲良く並んで座ることになった。
 どのみち眠るだけの深夜便である。食事が終われば、あとはさっさと寝てしまおうと、こちらからは強いて話しかけなかった。それでも生来の話好きか、男は「私、五、月、日本、仕事した」などと、ぎこちない日本語をぽつぽつと話す。英語はといえばなおさら頼りなく、意思の疎通はおのずと日本語に限定された。
 男は一人旅だった。
 いったい一人でクアラルンプールまで何をしに行っていたのか、そんな私のいぶかりが伝わったわけでもあるまいが、タイやラオスに旅行に行ったのだと、自分から語って聞かせる。飛び出し気味のぐりぐりとした目は眼光するどく、多少の才覚は身に着けているのか、原油価格の値下がりで不景気が続くというのに、ポケットからさりげなく取り出した紙幣は1万円札が10枚ばかり、旅費の余りと思われる外貨に、男の優越感がじわりとにじみ出た。
 どういう素性であれ、
 ──嫌みな男だな。
 というのが正直な印象であった。
 男の旅行に興味を引かれはしたが、あまり関わるべき相手ではないと思った。なにより、イランの初日に備えねばならない。私はしずかに睡眠の体制に入ったのだった。
 テヘラン国際空港の入国審査は、バンコクより多少は緩慢かといった程度で、いくらかの忍耐は必要ながら、10分ほど待てば私の順番が回ってきた。男が先に窓口に立ち、それが終わって私が続く。とくに質問もなく、検官はガラスの向こうで黙々と作業をこなす。スポーツ刈りはしばらくこちらの様子をうかがっていたが、元来忍耐のない性分なのか、つかつかと近寄ってきては、検官にペルシャ語でなにごとかを語りかける。検官はもちろん取り合わない。目の前をぶんぶんと飛び回るハエを追い払うように、男をうるさげに追い返した。さもあろう。おそらく検官の目からすれば、自国の小うるさい成金男より、日本のパスポートをもつ寡黙な旅行者のほうが無害に映るはずだと私は思うのだが、男はそのような細事を気にかけないたちと見え、この場所からさっさと抜け出したいのか、あるいは家族が恋しいのか、待ちかねる様子を隠さなかった。検官はあいかわらずうつむいて作業を続ける。ほどなくして、私のパスポートがぬっと突き出された。
 検官の脇を通り抜ける。右手にはバゲッジ・クレームに続く上りの階段が、そして左手には銀行の窓口がある。
「両替してきます」
 と、当然のごとく銀行に向かおうとする私に、男は、銀行なら市内に出てから連れていってやると言って制止する。
 ──それはこちらが決めることだ。
 入国時に少額の両替をしておくのは、旅の大鉄則である。なにより、現地通貨がなくて困るのは私自身である。男の無責任な指図にいくらか立腹し、いったんは無視して進みかけたのを、男が後ろから呼び止める。つい振り返った私に男は「お金、心配ない」と真顔で訴える。この男にも自尊心や見栄といったくだらない心理があるのなら、それはそれで尊重してやるべきかとも考えて、さればと、私は両替をあきらめることにした。
 とはいえ、釈然としないものが残ったのは確かである。
 イランの金を持たなければ、一人で行動することができない。いうなれば、見えないロープで後ろ手にくくられ、ロープの端を成金男に握られたに等しい。経済的な隷属。しかもこの男、自分の才覚を恃(たの)む気持ちが大きく、よかれと判断したところは多少強引に進めるきらいがありそうだ。そのうえ話すことはできても、聞く力、察する力に不安が残る。私の意思に対して、はたしてどこまで耳を傾けてくれるか。
 悪意の感じられない点がこれまた厄介で、どうやら成金は心底私を歓待してくれているようなのだが、男の義侠心は、すなわち金にあかせた小姓遊びにも似た。金を持たず意思の疎通も十分にできない以上、主従関係はここに明らか。これがもしイラン式の歓迎方法だというのなら、イランとは窮屈なところである。
 しかしこれがまさにイランの姿だとすれば、イランを見に来た以上、とりあえずはそのイラン式の主従関係に入り込んでみるくらいの義理はあろう。今日一日は身柄をこの男に預けてもいいかという覚悟が、こうして徐々に固まっていった。
2 未明の市街
 入国者たちが荷物検査を受ける横を、男は平然と先頭まで進み出る。後ろで成り行きを見守っていた私を手招きし、検官になにやら二言三言告げた。日本人はもともとノーチェックと聞いているが、男は私を先導する格好で、さっさと検官の前を通り過ぎてしまう。振り返って私を再度促すと、男は自動ドアを足早に通り抜けた。私はあわてて追いかける。いったいどういう理由で男がチェックを逃れたのか、そんなことを考える間もなく、私たちは大勢の出迎えの群れへと突入した。
 ──ここからがイランだ。
 多少の緊張感とともに、意識がさっと前を向く。
 いったん到着ロビーに出てしまえば、それまでの閑寂と疑問はあとかたもなく霧散する。客引きがバックパックの私をすかさず見つけ、粘っこい視線を投げかけながら「タクシー?」と聞いてくる。こちらがいっさいお断りの姿勢を貫くそばで、成金が「これはオレの連れだ」とこれみよがしに主張する。客引きは縄張り争いに負けたノネズミのように、意外とあっさり引き下がる。その変わりように感心しているうちに、到着ロビーが終わり、ターミナルの外に出る。そのままタクシー乗り場を突っ切り、さらに五分ほど歩いたところで大通りに出た。男は、流しのタクシーをつかまえた。
 あたりはまだ暗く、星がきりりとまたたく。いったい何時なのだろうか。さきほど空港でちらりと時計を見たのは覚えているが、頭は夢うつつの世界に遊んだまま、その時刻が思い出せない。腕時計は、まだマレーシア時間を指したままである。飛行機の到着がおよそ定刻だったことから、おそらく午前6時前と推測された。
 宿はあらかじめ決まっていた。
 ビザの申請に必要とやらで、初日の夜だけ日本から予約を入れていた。カオサール・ホテルという四つ星のホテルである。旅行代理店では名前と住所を渡されたばかりで地図さえもらえなかったが、出発前に手持ちのガイドブックで見たところ、どうやら市の中心に近かった。ロケーションは良いようである。
 成金もタクシーの運転手も、私の宿がカオサール・ホテルと聞くと納得した様子を見せた。男は自分の家はホテルに近いと言い、オレは先に家に寄ってからあんたをホテルまで送ってやると言う。べつに送ってくれるには及ばないのだが、まあ、好きにしてくれとばかり、私は後部座席に深く座りなおした。
 男の家は、ヴァリエアスル広場から少し南下した住宅街の一角にあった。タクシーを玄関口に着け、呼び鈴を鳴らす。脇道に面したレンガ造りの5、6階家。いわゆるヨーロッパのアパートメント、フランス風にいえばアパルトマンである。
 汚らしい地区ではない。
 いくぶん殺風景ながら、ゴミも散らからず、むしろ清潔な感じがする。周りの建物も、新しくはないが古さびた様子もない。男は呼び鈴を鳴らすたびに自分の家らしき階上の窓を見上げ、家人が「あ、お父さんだ!」と飛んで出てくるのを心せいて待っている。が、いっかな窓は開かない。はじめのうち、男は私にむかって腕枕の仕草を見せ、どうせ寝ているんだろうと笑っていたが、3分たっても5分たっても窓に明かりは灯らない。私にはもしかして男の一人芝居では、との疑いが生じたが、男の苛立(いらだ)ちはとても演技とは思えず、あの男をしてここまで粘らしめるのは、このアパートメントがやはり男の最後の拠点だからにちがいない。
 何度呼び鈴を鳴らしても応答がない。男はついに諦め、うなだれながらタクシーに戻ってくる。ボストンバッグをトランクに積み直し、先に私のホテルに行くことになる。
 ヴァリエアスル広場を通り越し、広場のすぐ北を右折する。じきにホテルが現れ、その前で車は停まった。あたりは、徐々に明るさを取り戻しはじめていた。
 チェックインをすませると、話題はこのあとの予定に移る。男の質問は意外にも、
「あした、何時?」
 であった。
 ──え、明日でいいのか。
 瞬間、耳を疑った。私は当然、このあとどこかに案内されるものだとばかり思っていた。明日でいいなら、今日は一日ゆっくり過ごし、辺りを散策しながら付近の地理を知ることができる。このホテルは今晩一泊だけだし、明日この男と会ったあとは、イマーム・ホメイニ広場の安い宿にずらかればよい。
 ほんとに明日でいいのか半信半疑ではあったが、へたに聞き返して「やっぱり今日」などと変心されてもイヤなので、私はとりあえず、
「うーんと、10時」
 と答えてみる。
「OK。10時」
 相手は納得し、私は男の後ろ姿を見送ってから部屋に上がった。
3 ロビーにて
 シャワーのあとベッドに入って少しうとうとしているところに、電話のベルが鳴った。受話器を取ると、今朝方、別れたばかりの男である。今、ロビーにいるらしい。
 ──いまさら何の用だ。
 今日はこれで解放されたと、すっかり無防備になって気持ちよく眠っていた。そこに一階から私の枕元へと、電話のベルが無遠慮に飛び込んできた。
 ──まったく、明日にせぇよ。
 私は男のなれなれしさを疎(うと)ましく思った。しかし微妙なニュアンスを伝えるのはむずかしく、
「今日は寝てます」
 とだけ簡潔に言って電話を切った。
 まだ眠りは浅く、すぐには眠りに戻れそうになかった。窓辺に目をやると、窓ガラスの向こうに青い空が遥かに広がっている。着いた早々こうして寝ているのがやけに惜しく感じられ、外に出てみたい気持ちが急激にふくらんでいく。イランの金はまだ持っていなかったが、少額の両替ならフロントで頼めばよい。私はベッドから跳ね起き、外出着に着替えて一階に降りた。
 ところがフロントに目をやった瞬間、私の気持ちは一気にしぼんだ。
 例の成金が、フロントの男と立ち話をしているのである。
 ──何用があってこの界隈をうろつくか。
 男の存在は、ホテルを出ようとする私を通せんぼでさえぎるかのように、眼前に立ちふさがってきた。
 男は私を認めると、柔和な顔つきのまま少し愚痴めいたことを言った。よく聞くと「私はちゃんと10時に来たよ」と言っているらしい。しかしそこに責める空気はなく、男はむしろ「大丈夫」と、度量の大きさを示してみせた。
 ──話がちゃうぞ。
 文句を言いたいのはこちらである。約束は明日のはずではないか。私は声に出して、
「さっきは、明日の10時って言ったでしょう?」
 と、こちらの正当性を主張する。しかし所詮、この男には通じなかった。たしかに、明日の10時というより今日の10時のほうが、話としては合理的である。私は疲れてもおり、早く自由になりたかったので、朝はなんの疑問ももたずに明日という言葉を鵜呑みにしてしまった。とはいえ、チェックインをしたのは朝の六時台である。とっくに今日になっている。男は、まだ前夜のつもりでいたのだろうか。
 いずれにせよ、目の前で男が待っている以上、私にノーの選択はなかった。私はぶらぶら歩きの予定を胸奥にしまい込み、代わりに男と同道する心づもりを整えた。
 男は私の希望を聞いてくる。
「あなた、どこ、行く?」
 私はまだ、テヘランについてほとんど何の情報も仕入れていなかった。
 どのみち私は、行きたいところへは自分一人で行く。どう転んでも、現場のど真ん中に立ち、被写体と出会い、360度その場に囲まれようとすれば、一人で行くほかないだろう。訳知り顔のイラン人に、中途半端な先入観を植え付けられることは避けたかった。ガイドもときには必要だが、やはり自分の第一印象が大切である。たとえ雨がちの日であっても、小雨の日にはしっとりと濡れた草葉の潤いがあり、本降りの日には諸事を流し去る潔さがある。なにより、それを現場のど真ん中で日々受けとめる人間がいる。旅人はただ、そこに行って、見ればよい。
 今は、成金の行くところがほかならぬ成金の現場である。私は男に、
「まだ決めていません」
 と答え、どこにでも連れて行けとばかりに、やや冷然とした態度を見せた。
4 テヘランの烏丸通り
 男は少し考えたあとヴァリエアスル広場まで私を連れて行き、ペルシャ語でサヴァリと呼ばれる乗合タクシーに乗り込ませた。乗合タクシーは、ルートがあらかじめ決まっている。その点はバスに似ているが、その途上ならどこでも乗り降りできる点でバスと異なっている。また定員以上は乗れないので、かならず座ることができる。もちろんバスよりも小回りがきいて早い。
 イランでサヴァリと呼ばれる乗合タクシーは、トルコではドルムシュと言い、また同じような乗合タクシーは韓国にもあるという。東南アジアでは、フィリピンのジプニー(現地の人はたんにジープという)が近いかもしれない。ジプニーには改造ジープが使われるが、イランのサヴァリやトルコのドルムシュは基本的に五人乗りの乗用車である。乗合タクシーはかならず座れる点がたしかに魅力ではあるが、後部座席に大の男が三人座ることになればかなり窮屈で、かならずしも楽な乗り物とは言い切れない面もあった。
 ところで、イランでは大きな交差点の多くはロータリーになっている。そこを「××広場、ペルシャ語で「メイダネ××」という。たとえば今泊まっているカオサール・ホテルに近いヴァリエアスル広場は、ペルシャ語でメイダネ・ヴァリエアスルという。混乱がなければ、たんにヴァリエアスルと言うこともある。
 テヘランは、南北に長い町である。
 そのうえ町全体が、京都のように南に向かってゆるやかに傾斜する。そんなテヘランを、南北に縦断する大通りがヴァリエアスル大路である。いわば京都の烏丸通りに当たるだろうか。
 ヴァリエアスル大路には、大きな交差点(広場)が3つある。その最も南にあるのが、このメイダネ・ヴァリエアスルである。この界隈はしゃれたブティックが軒を連ね、東京でいえば銀座のような大人びた雰囲気がある。夜になれば、若い夫婦や友だち連れがウインドーショッピングを楽しむ姿がそこここに連なって賑わいを見せる。ヴァリエアスル大路が烏丸通りとするならば、メイダネ・ヴァリエアスルはさしずめ四条烏丸である。
 町の風情は、そこから南に下るにつれて庶民的な空気が濃くなる。逆に北に上ると、閑静な住宅街や高級ホテルが増える。多摩プラーザ、鷺沼、あるいは田園調布、また京都でいえば北山といったおもむきだろうか。
 メイダネ・ヴァリエアスルからヴァリエアスル大路を5、6キロほど上っていくと、メイダネ・ヴァナクの交差点に至る。烏丸丸太町、もしくは烏丸今出川である。旅行者にはあまり馴染みのない場所ではあるが、瀬里奈(せりな)という日本料理屋があるため、それなりに有名ではあるようだ。
 さて、私たちはそのメイダネ・ヴァナクで車を降りた。ここがこのサヴァリの終点である。ここからさらに北に向かうには、あらたにここを起点とするサヴァリに乗り換えねばならない。
 イランは、社会システムのわかりにくい国でもある。
 サヴァリにしても、走るルートが決まっているというのに、車のどこにもルートの目印がない。皆いちいち車を呼び止め、運転手に「どこどこ!」と叫ぶ。それがルート上にあれば車は停車し、なければ無言で行き過ぎる。マイナーな場所に行こうとすれば、何度かのトライが必要になる。トルコのように、せめて行き先だけでもどこかに表示されてあれば、停まるほうも停めるほうも楽ができると思うのだが、見ているかぎりイランにそのようなシステムはない。わずかにその一点を見るだけで、ああ、イランとはなんと手続きの面倒な国かと私は嘆息する。
 メイダネ・ヴァナクで、北の果てメイダネ・タジリシュ行きのサヴァリに乗り込んだ。車は、秋晴れのヴァリエアスル大路を北に向かってずんずん進む。車内では、成金が運転手と談笑している。そこに、一人の中年婦人が助手席に乗り込んできた。
 イスラム教を厳格に守ることが要求されるイランでは、他人の男女が公の場で言葉を交わすことが基本的にできない。市バスも、男女の席が峻別されている。しかし、サヴァリではそれが例外になるらしい。聞くところによると、サヴァリは個人商売のため、客は男女を問わず逃さない。そのため乗り込む順序によっては、見知らぬ男女が隣り合わせに座ることもある。
 運転手と気安く話をしていた成金は、ややあってこの婦人と会話を始めた。そのあたりのさりげなさは手慣れたもので、話の内容までは想像がつかないものの、ことによるとタイやラオスへの一人旅で磨いた感覚があるのかもしれない──などと思いながら、その鮮やかな社交術に感心した。
 家の中ではいざしらず、少なくとも路上を行く女たちは貞淑を装う。どこの世にも例外はあるだろうが、ことさら形にこだわってみせるイスラムの制約に殉じ、校則を守る女子学生のように、とりあえずは規範に従って批判のすきを与えない。
 そのように窮屈なイスラム包囲網のなかで、さりげなく婦人と会話をはずませる成金のふるまいは、わずかに車中だけの縁とはいえ、私には、
 ──なかなか小気味がいい。
 と思われた。それはとりもなおさず、イラン式イスラム社会の偽善に対し、私自身も知らないうちに反発を感じていた証拠なのかもしれなかった。
 さて、メイダネ・ヴァナクからおよそ5キロの道のりをたどり、メイダネ・タジリシュで車を降りる。私の両肺に、新鮮な空気が流れ込んだ。このあたりはいかにも北のはずれといったおもむきで、交通量も減り、のどやかな風が吹く。地肌をむき出しにした山が、いよいよ間近に迫って見える。
 さてもここからどうするのかと思えば、男はさらに北に向かうサヴァリをつかまえた。最後のサヴァリは、山中に続く上り坂を苦しげに上ってゆく。やがて道が少し広くなり、店々が並んだ賑やかな一角に出たところで車は停まった。いよいよ終点のようだ。頭上をロープウェーのケーブルが渡る。いわゆるテレキャビンであろう。山の高い地点まで行楽客を運んでいくようだが、週に3日しか運転日はなく、今日は運休日なのか、高所に張り付いたゴンドラはしばらくながめても動く気配を見せなかった。