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バルカン青奇
I  go to   Yugo
2016.6.05sun.6.11sat.
〈写真日記〉
バニャルカ列車旅
写真
サラエボ発ザグレブ行き
icon2016年 6月7日(火)朝
 国際列車
 午前10時21分、警笛が短く響いて列車が静かに動き出す。まずは順調な出発だ。
 駅には10時前に着いた。切符を売る窓口は2つ開いていた。右側には客がいなかったので、待たずに買うことができた。長距離の切符は行き先だけでなく、日時や1等と2等の区別、場合によっては片道か往復かなど、指定するべきことが多い。へたなクロアチア語で泥沼にはまっても面倒なので、すなおに英語で買う。
 この国は鉄道輸送の役割がとくに低いようで、地下通路からホームに上がると、がらんとしたホームが2本あるばかり。これから乗り込む列車が奥側のホームに停まっている。3両編成で、うち1両が1等車。それぞれの車両に喫煙席と禁煙席がある。
 ホームがすっかり放置されているのに対し、車内は明るくて小ぎれいだった。空いているコンパートメントに入ってホームをぼんやり見ていると、客はときどき乗ってくる程度で、無人のコンパートメントもまだ多そうだ。途中の駅で少しずつ乗ってくるのかもしれない。
サラエボ駅のホーム。右に停まっているのが乗った列車
 ふつうのヨーロッパの車両
 発車から15分ほどして車掌が検札に来る。薄い紙の切符の、下の方にあるチェック欄にボールペンを押し付けると「✓」の印が付くより先に紙に穴が開く。使用済みの状態になればそれでいいのだろう。Hvala.(ありがとうございます)と言いながら切符をこちらに返す車掌の物腰の柔らかさに、温かな旅情が心の内にふくらんでいく。こちらも軽く Hvala! と返す。
 サラエボ→ バニャルカの切符
 1時間に2つ3つほど停車しながら列車はガタゴト進む。そんな古くさい擬音語が似合うほど運転はのんびりとしている。いまはどこの国もそうだろうが、保線の予算がつかなくてスピードが出せないというのが実情かもしれなかった。
 11時50分すぎにドリブシャ(Drivuša)という駅を通過する。日本なら無人でもおかしくないような、いやむしろ真っ先に無人化されそうなひなびたローカル駅にも駅員がいて、列車が通過するたびに駅員が駅舎から出てきて列車を見送る。ほとんどは中年以上のおじさんだったが、この駅は世代交代なのか、若い女性が見送りに出てきた。雨に煙るモノクロの風景が一瞬で色とりどりの花畑に変わった風情であった。
 6月という季節のせいか、沿線は緑が豊かだ。なだらかな丘陵が遠くに見える。集落が近づくと畑や果樹園が現れるが、人家のないところでもたいてい草が生い茂っている。たまに山間に入り込むが、しばらくすると平地に出る。遠くに丘が連なっているので、大きな盆地といえるかもしれない。
 ときどき集落が現れる
 正午にゼニツァ(Zenica)に到着する。すぐに発車。サラエボを出てから一番大きな町だ。10階建てほどのアパートが林立するのが見えた。
 乗ってきた客がそれぞれの場所を見つけ、車内が落ち着いたところで、サラエボの旧市街で買っておいたパンを食べる。チーズのかけらが入ったパンだ。うまい。このあと訪れたセルビアで iPodをなくしたので、食べ物の写真は残念ながらほとんど残っていない。
 ゆるやかな山の中をしばらく走る。カルスト地形の原型はスロベニアとクロアチアだが、このあたりの地盤も石灰岩のようで、ときおりセメント工場が現れる。コソボとマケドニアの国境付近にも似たような風景があったので、旧ユーゴスラビアの地下には石灰岩が広く眠っているのかもしれない。
 いきなり現れるセメント工場
 線路脇を川が流れている。かなり前から並走していて、ときに視界から消えることもあるが、気がつくとまた横を流れている。小川でもなく大河でもない。日本は平野が短いので、このような中規模の川が長々とのんびり流れるさまを目にすることはあまりない気がする。あとで調べたところ、どうやらボスナ川というようだ。
 付かず離れず流れるボスナ川(たぶん)
 13時40分、ドボイ(Doboj)駅に到着する。大きな駅だ。3番ホームまである。この列車をこれまで引っ張ってきた電気機関車がここで交替した。役目を解かれた機関車が軽やかに後方に去ったあと、前から軽い衝撃が伝わってきた。新しい機関車を連結したようだ。
 このコンパートメントには私しかいないが、近くで話し声がする。ドボイに着いて少し活気づいた感じがする。
 ドボイ駅(駅舎とは反対側)
 13時50分、列車が発車する。しばらくして検札が来る。ふつう検札が2回来ることはないが、やってきた車掌は先ほどと違う男だった。もとより制服が違った。前の車掌も、通過駅で見送ってくれた駅員たちも、鮮やかな赤い帽子をかぶっていた。いまは全身紺色だ。どうやらドボイの駅で乗員も交替したようだ。あとで聞いたところによると、運営会社が変わるのが理由らしい。
 スルプスカ共和国
 ドボイ駅に着く少し前に、線路脇の表示がラテン文字からキリル文字に切り替わっていた。サラエボ周辺では英語と同じラテン文字(a, b, c, …)が使われるが、この辺りから先ではロシア語と同じキリル文字(а, б, в, …)も使われる。
 じつはこのボスニア・ヘルツェゴビナという国は〈ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦〉と〈スルプスカ共和国〉という2つのエリアに分かれている。1990年代にボスニア内戦を終結させる和平交渉のなかで、最終的にこのような形で落ち着いたのだった。協議が行われた地名をとって、これをデイトン合意と呼ぶ。
 〈ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦〉は名前に「連邦」が付いているが、こちらのほうが下位の構成体である。主にクロアチア人とムスリムが住んでいる。一方のスルプスカ共和国は「セルビア人共和国」という意味だ。その名が示すとおり、住民のほとんどがセルビア人である。
 わずか数年とはいえ、内戦で激しく戦った相手であり、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とセルビア人共和国の対立は深い。ドボイの駅で機関車と乗員が交替した背景には、内戦の影が色濃く落ちている。とても残念なことである。
 2つのエリアについてはウィキペディアの地図がわかりやすいので、下に貼っておこう。地図全体がボスニア・ヘルツェゴビナで、青がボスニア・ヘルツェゴビナ連邦、赤がスルプスカ共和国である。
地図
ボスニア・ヘルツェゴビナ全図
(ウィキペディアの地図を加工)
 ドボイの駅を出てから、列車はまるで機嫌を直したかのように軽快に走った。15時26分、20分遅れを保ったまま、無事にバニャルカ駅に到着!
  バニャルカ駅
〈関連リンク〉
ボタンバニャルカ(ウィキペディア)
ボタンデイトン合意(ウィキペディア)
〈参考文献〉
柴 宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』岩波新書(1996年)
(2016.6.29 記)