昨夜に続いて「アベニューU」駅に来る。
アベニューUという名前の駅はじつは3つあって少しややこしい。昨日来たのは地下鉄Q線の駅で、今日はN線である。両駅の間にもうひとつF線の駅があり、それぞれ一駅分くらいずつ離れている。
日曜日の、しかもまだ午前9時とあって、街そのものがまだ少し寝起きの顔をしていた。駅前の大通り(つまりそれがアベニューUなのだが)こそ人の動きがあるものの、脇道を一歩入ると、まるで本の挿絵の中に紛れ込んだかのように風景が静止している。たまに前から人が歩いてくると、とたんに幻術が破れて現実の世界に引き戻される。
アベニューUから北に1ブロック上がった角に目的の場所がある。レンガ造りの質素な3階建てで、表通りに面して店舗がひとつ入っているほかは、住居かオフィスのようだった。看板も表示もなく少し不安になるが、戸口の上にぽつんとひとつ十字架が描かれているので、ここで間違いないだろう。
東京の中野区にはマンションの一室を借りて仏堂にした場所があるという。寺や教会といった専用の建物をもたない者たちが、都会のなかに信仰場所を求めれば、おのずとそういう形に落ち着くのだろう。
出発前にネットでグルジア教会を検索して出てきたのがこの場所だった。しかし、普通に思い描く〈教会〉の写真はいくら探しても見当たらなかった。いぶかしく思い、Googleのストリートビューで確かめても、教会の住所には普通の建物しかない。それがいま来ている建物だった。東京の中井の仏堂のように、中の一室を礼拝所にしているらしかった。
なお、グルジア料理屋の回(第4話)でも書いたが、ジョージアという呼び方はまだ慣れないので、この連載ではグルジアの呼び方を使わせてもらうことにする。
ここには日曜礼拝の時間帯を目指してやってきたのだった。事前に確認したわけではなく、希望的観測といえばそうなのだが、キリスト教徒、なかんずく異国に暮らす信者にとっては祖国の信仰に立ち返る貴重な時間である。きっとやっているだろうと、7割くらいの確信でやってきた。ところが、十字架を頭上に描いた扉をぐいと引いても、動く気配がまったくなかった。
——ううむ。仕方がない、帰るか。
などと清々とは諦められず、なにがしかの手がかりが湧いてきやしないかと、しばらくその場でぐずぐず粘っていると、後ろから来た2人連れの男が少し離れたドアから中に入っていく。
——ん? もしかして⁉
その扉は10メートルほど先ににあり、てっきり隣の家だと思っていた。2人はノックもせずに当然のように入っていったのだから、個人宅ではない。私は2人の後を追い、慌てて中に入った。
* * *
中は右手前に長机が置かれ、受付のような格好になっている。教会堂でいえば正面の入口と聖所とをつなぐ〈啓蒙所〉に当たる。中にいた男がまるでX線写真を調べるレントゲン技師のようなうろんな目でこちらを見てくるので、反射的に「ガマルヂョバット(こんにちは)」とあいさつをする。返答はなかったものの効果はてきめんで、男の視線から警戒の色が消え、中にまっすぐ進み入る私を男は無言で見送った。
奥の部屋、つまり先ほど私が開けようとした扉の内側は、学校の教室をやや細長くしたほどの広さで、一番奥に祭壇、残る三方の壁には大小のイコンがずらずらと掛かっている。イコンというのは乱暴にいえば東方正教で使う仏画のようなもので、ハリストス(キリスト)やマリア様以外にもさまざまな聖人が描かれる。そこはすっかりグルジアの教会堂であった。
献灯のロウソクを買いにいったん啓蒙所に戻る。1ドルのロウソクを2本買った折りに、グルジアの方ですかと物販のおばさんにグルジア語で尋ねてみる。NY2日目に訪れたグルジア料理屋でも同じ質問をしていた。いかにもひとつ覚えで芸がないが、他に言えるフレーズがほとんどないので仕方がない。続けて、グルジア語を少し話します、と言おうとして、フラパ……と言いよどむ。すると、おばさんのほうからフラパラコプと助け船が来る。そう、それ。
9時半頃に聖体礼儀が始まる。聖体礼儀は日曜日や祭祀日に行われる一連の信仰儀式で、最後にはパンと葡萄酒が飲食される。カトリックのミサに当たるが、その形式や意味づけはカトリックとは異なるという。
開会宣言のような言葉はない。普通の信者と見えた40代くらいの女性がのっそりと右前方に進み出て、聖歌の詠唱を始める。ある程度の規模の教会堂なら聖歌隊がいて、相応の迫力で司祭たちと聖歌の掛け合いが始まるのだが、参列者が10人ほどなら歌だけ豪華でも釣り合いが悪い。司祭と信者の2人による聖歌は遠い異国の場に似つかわしく、どこか秘密めいた香りを放っていた。
司祭が香炉を振り(炉儀)、2人の子どもが長いロウソクを捧げ持ちながら、狭い室内を静かに歩く。練り歩く、と言いたいところだが、室内をL字に往復するのは少しばかり窮屈そうだった。
日曜日に定刻に来るのはしんどいが、それでも信仰か習慣か、参加はしようという信者がぽつりぽつりと現れる。10時ごろには20人を超え、換気の乏しい室内に暑さが増していく。中は次第に混み始め、異教の徒が一人分のスペースを使うことに心苦しさが芽生え始める。
途中退出はいい行いではないうえ、もう少し先を見届けたいとの思いもあったが、暑さと非信者の肩身の狭さがもくもくと膨らんで居づらさが募ったため、はてしなく続く聖歌に後ろ髪を引かれながら、思い切って外に出た。
7thストリートの空気が頬にひんやりとして心地よかった。
(2016.4.19 記)
日曜、朝9時の住宅街
グルジア教会。奥側の扉が入口
グルジア(ジョージア)の首都トビリシのベツレヘム(ベトレミ)教会
(2014年)