裏の門は開いていた。べつに忍んで入り込むわけではない。地下鉄N線の「28 thストリート」駅から来るとそこがたまたま裏口なのだった。境内には想像よりずっと立派な教会堂がそびえている。夕方4時という中途半端な時間に来てしまったが、はたして開いているだろうか。とりあえず正面に回ってみる。
期待値を低めに下げてから教会堂の扉をぐぐぐと押すと、重い扉がゆっくりと動く。
——開いている!
浮き立つ心を抑えながら、先の小さな〈啓蒙所〉を通り抜け、天井の高い〈聖所〉に入る。バシリカ式というのだろうか、天井にドームはなく、聖所全体が長方形の広間になっている。30メートルほど離れた祭壇の前には、20人ほどの男女が漫然と集まっていた。
どうも身内で何かの儀礼を受けているようだ。合格した志望校の入学式のような、厳かな緊張感のなかに自然とこぼれる笑みがある。こういう空気をどこかで感じたことがある。そう、ロシアのハバロフスクで訪ねた教会堂だ。そのときは数組の家族が合同で赤ん坊の洗礼式を受けていた。
身内の密やかな儀式を闖入(ちんにゅう)者が邪魔しないようにそろそろと近づくと、司祭の前に赤ん坊を抱いた女性がいた。やはり洗礼式のようだ。 洗礼式と言ってもこの場に水はない。浸水の儀式はどこか別の場所で済ませているのかもしれない。
司祭は赤ん坊の前で祈禱(きとう)文か何かを唱えている。その間、コンパクトカメラを持った親族らしき女性が要所要所で写真を撮る。洗礼の儀式はキリスト者としての人生が始まる大事な節目だと聞く。その重さは日本の七五三の比ではない。そのことは目の前に参集している20人ほどの人数を見ても想像がつく。
この教会は聖サワ大聖堂といい、セルビア正教に属する。セルビアという国名は旧ユーゴスラビアの内戦のニュースなどで聞いたことがあるかもしれない。東方正教会のうち、セルビアにつくられた組織がセルビア正教会だ。言うなればここはセルビアから飛来した種がニューヨークで芽吹いて育った子株のようなものだ。
そういえば、入ったときから何となく感じていた違和感の原因がようやくわかった。整然と並ぶ長イスだ。正教会の礼拝は立って行うのが基本なので、聖所にはふつう礼拝用の長イスがない。横の壁も殺風景で、正教会の多くの教会堂のように、宗教画(イコン)があちこちに掛かっていることもない。元はカトリックかプロテスタントの教会なのだろう。
洗礼の最後を締めくくるのは切髪式だ。切髪式はハバロフスクの教会で見たことがある。司祭が幼児の毛先をつまんで数センチほどを切り取る。簡潔で美的な儀式だ。ものの本によると、これは秋の刈り入れを表し、教会が新たなクリスチャンを迎え入れることを象徴するのだという。
洗礼の儀式に部外者が長々と居座るのもよくないので、切髪式の前に切り上げることにする。天井の高い〈聖所〉の扉を抜け、出入口に続く〈啓蒙所〉に戻る。ろうそくなどの物販コーナーでは若い女性が受付をしていた。
「これはセルビア教会ですか?」(オヴォ・イェ・スルプルカ・ツルクヴァ?)
と、かろうじて思い出したセルビア語で聞いてみる。
とりあえず通じたようで、
「Yes, serbian church.」
と英語の答えが返ってくる。もちろんセルビア語で答えられてもわからない。
堂内の儀式はやはり洗礼式であるらしく、クリスチャンはみな受ける必要があるという。話題を変えるために去年コソボに行ったと言うと、あそこはセルビア人のホームランドだから古い教会が残っている、との返答。
コソボは中世セルビア王国の発祥の地とされる。いまではアルバニア人の国になっているが、かつてはセルビア人とアルバニア人が共存し、教会とモスクが併立していた。たんなる住処(すみか)のレベルを超え、気持ちの最後の拠り所となるような、どこか遠く甘い記憶に連なる場所なのかもしれない。
そうこうするうちに洗礼式が終わったようで、親族たちが〈聖所〉からばらばらと出てくる。関係のない異教徒は退散するタイミングのようだ。教会堂に入ることができたばかりか、ひとりの小さな生命の、大きな門出の場に居合わせた。これから先、大人に向かう過程で、アメリカ人とセルビア人のはざまで揺れる時期があるに違いない。しかしこの聖堂が存続するかぎり、セルビア人の根っ子を失うことはないだろうと思った。
* * *
宿の最寄り駅をやり過ごして「アベニューU」駅まで行く。宿の南側に行くのは初めてだ。駅名にもなっている〈アベニューU〉沿いは、商店や飲食店が延々と続いている。
アベニューUを東に歩くうちに、仮装の子どもと引率の保護者という親子連れがぱらぱらと現れる。今日は10月31日、ハロウィンである。時間は午後7時を過ぎたばかりだ。個々の住宅街でもやっているのかもしれないが、大通り沿いは明るいうえ、店が建ち並んでいるので、お菓子を集めるにはたしかに好都合かもしれない。
管理と群れが大好きなどこかの国とは違い、管理者やリーダーはとくにいないようで、親子2人で地味に回っているのもいれば、鬼たちが家々を訪ね歩く日本のどこかの伝統行事のように、数家族でにぎやかに練り歩くグループもいる。
十数人でいそいそと立ち動く様子を、トラブルにならないように少し遠めからそっと写真に撮る。仮装イベントは近ごろ日本でも流行しだしたが、ハロウィンの夜はやはり子どもたちに主役を渡すほうが微笑ましくてよい。
(2016.3.18 記)
セルビア/コソボ周辺図(Googleマップを加工)
聖サワ大聖堂のプレート
聖サワ大聖堂、洗礼式の様子
アベニューUのハロウィンナイト