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 2015年秋 
異邦人のニューヨーク
 
2夜の安食堂
 (初 日)
写真
 いくら遅くても2時間後には目が覚めると思っていた。
 夕方4時すぎに宿に着いて部屋に入ると、日本からの移動の疲れや昨夜の睡眠不足、さらには安定の時差ぼけがまとめて押し寄せてきて、ベッドのうえでついうとうとした。
 目を覚まして腕時計を見ると、ぼんやりとした視界のなかで、時計の針が次第に輪郭を表してくる。予想のはるか斜め上を行く時間になっていた。
 ……。
 これを絶句というのだろう。文字盤の上で泰然と時を刻む時針と分針をただぼうっと見ているだけで、言葉を発することを忘れている。きっと見間違いだろうと何度も目をこらし、念のためにスマホ(iPod touchだが便宜的にスマホと呼んでおく)の時計まで確かめた。しかし、腕時計もスマホも、ともに夜の9時半近くを示していた。
 ほんの10分ほど寝ただけだと思ったのに、5時間も昏睡していたのか?
 しかし、過ぎたことを言っても始まらない。そんなことより、問題はこれからの行動だった。
 夜は余力があればジャズライブを聞きに行くつもりだったが、ライブどころか晩メシさえ危うい。たとえばブルックリンの中心部、アトランティック・アベニュー駅まで地下鉄で行ったとして、はたして地上に上がってすぐに飲食店がみつかるかどうか。土地勘のない東洋人が夜の街をさまよい歩けば、夏の虫が誘蛾灯の周りをふらふら飛ぶのに等しい。帰りの地下鉄の車内の様子が予想できないこともまた大きな懸案だった。
 こうして、夜の10時に何の情報もなくニューヨークの街に繰り出すな、というきわめて常識的な結論にたどり着くのだった。
 しかし、常識で腹はふくれない。ココロザシよりメザシである。午後1時すぎにアストリア地区でパスタを食べたあとは何も食べていなかった。地下鉄で出掛ける選択肢が消えれば、あとは徒歩圏内で探すという一択しか残らない。宿の周りは住宅街のようなので、はたして飲食店があるだろうか。とにかく外に出ることにする。
 宿の前の通りに出て左右を見渡す。駅側は絶望的に暗かったが、反対側には明かりがちらほら灯っている。信号機があり、車の往来が見えた。近づくと、道の向こう側に何軒か店が並んでいる〈デリ〉と呼ばれるコンビニのような食料雑貨店が2軒、脇道をはさんで向きあっていた。その右側にガラス壁の明るい店がある。
 ——飲食店でありますように。
 祈りながら近づくと、手前はスイーツの売り場だったが、フロアには四人掛けのテーブルが並び、ファストフードのカウンターのような場所が奥に見えた。ファミレスの健康的な明るさと日常の気楽さが同居する手頃な店に見えた。つかつかと奥まで進むと、ガラスフレームの向こうに作り置きのおかずが並んでいた。
 ——よっしゃ!
 何種類かの煮込み料理がアルミの深鉢のなかで注文が入るのを待っている。出来合いのおかずを並べて客に選ばせる形式は、広く中国からトルコまで見られるが、料理は中東よりもアジアの料理のように見えた。
 ざく切りのジャガイモが入った料理がうまそうだったので、それを頼む。香辛料がしっかり利いてそうなヘルシーな料理を実際に見て選べるのがうれしい。ちょうどカレーライスや麻婆丼のように、ご飯にぶっかけて出されるようだ。
 少し待つと、ぶっかけ飯が載ったトレイが運ばれてくる。レタスのサラダがセットで付いていて、コップ入りの水も載っている。無造作な配膳のなかに小さな心遣いがある。ただ、量はさすがにアメリカンで、大皿のうえにライスが満遍なく敷かれ、ルーに当たる煮込みがライスをびっしりと覆っている。これで6ドル(約750円)だから良心的だ。
 ところで、奥のテレビで流れている何かのインタビュー番組が先ほどから気になっていた。画面の下にはずっとアラビア語のテロップが流れている。アジアのイスラムでまず連想するのはマレーシアとインドネシアだが、ここの料理はそうではない。いったいこの店はどの国につながっているのだろう。
 夜も遅かったのについ多く食べてしまった。それでも2割くらいを残した。ニューヨーク最初の夜からうまいアジア飯を食べることにどこか後ろめたさを覚えるが、満足したからいいのである。店内は10時をかなり回ってから客が増え出した。ムスリム店のせいか、あるいはただ仲間が集まっただけなのか、テーブルに着いている客は若い男ばかりだった。さっと見た感じでは、肌の色が濃く、しゅっとした顔の青年が多そうだった。
 会計のためにカウンターに伝票を持って行くと、店長らしき年配の男が対応してくれる。入ったときからの疑問を解決しようと、ここはアラビアンフードですかと聞くと、男はパキスタンと答えた。パキスタン料理……。これまでカレーとケバブのイメージしかなかったが、本国では豊かな食文化が広がっていることを確信した。
 釣り銭を受け取ったあと、脇にあった店のパンフレットをもらおうと声を掛けると、友だちの分も持ってけと、男は何部かをまとめてつかみ、まるでリレーのバトンを渡すようにカウンター越しに私に差し出した。
2016.1.20 記、1.23 修正)

出された料理(名前知らず)

奥の注文カウンター

店のパンフレット
〈店舗情報〉
Sweetness USA(旧Mithaas)
1150 Coney Island Ave., Brooklyn, NY
略図

(GoogleMap)