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 2015年秋 
異邦人のニューヨーク
 
1小さなコーヒーショップ
 (初 日)
写真
 マンハッタンのミッドタウンにあるシュワーツ・ラゲッジ・ストレッジでかばんを預けたあと、地下鉄のタイムズスクエア駅まで歩いてQ線に乗る。
 昨晩、空港に降り立ったときには強めの雨が降っていたが、泣きやんだ子どもがけろっと遊び始めるように、朝にはすっかり晴れあがり、透明感のある明るい秋空が広がっていた。途中で地上に出た列車は、ゴトゴトと大きな反響を響かせながらイーストリバーの鉄橋を渡る。両岸いっぱいまでビルが建ち並んでいるせいか、淀川や多摩川のような開放感はない。それでも川を渡りきると、まるで違う世界に入っていくような期待がある。そこはもうマンハッタンではなく、クイーンズと呼ばれるエリアである。
 川を渡って2つめの「39thアベニュー」駅で降りる。商店がぽつぽつあるがとくに賑やかなわけでなく、逆に住宅街にしては落ち着きがない感じの、悪くいえばどっちつかずの、良くいえば商住近接の環境に見えた。
 高架下の大通りから数ブロック入ったところに、目指すコーヒーショップ「Our Coffe Shop」はあった。
 出発前にネットの写真で見ていたが、思った以上に小さな店だ。京都の民家もかくやと思える間口の狭さで、奥行きにしても、入口から半分ほど進んだ位置にカウンターがあり、そこから先はキッチンスペースなので、フロアは正味6畳分くらいしかない。
 そのフロアにしても、ちょっと腰掛ける程度のイスを置いた小さなテーブルが2脚あるばかりで、営業の中心はテイクアウトと知れた。実際、カウンターの客はコーヒーを受け取るとそそくさと出て行った。
 カウンター越しに店のおばさんと対峙した私は、ほうれん草のパイとカモミールティーを頼む。コーヒーはどこか別のカフェでゆっくり飲むことにし、ここではやさしめの飲み物を選ぶ。ほうれん草のパイはギリシャの食べ物だという。帰国後に調べてみると、なるほど〈スパナコピタ〉と呼ばれる食べ物があった。
 ニューヨークの初日にクイーンズに来たのは、今夜から4泊する宿に移動する途中で都合がいいからだった。ではなぜ何の変哲もない、この小さなコーヒーショップに来たのか。その心は、小さな店を切り盛りするこのおばさんが、ハンガリー出身だったからである。
 この5日間のニューヨーク旅では、私が最近、関心の高いハンガリー、旧ユーゴスラビア、グルジア(ジョージア)にからむ場所を訪ねることにしていた。その初っぱなが、たまたま行きやすいこの店だったという次第である。
 客が2人ほど続いたあとにふと客が途絶えたタイミングをみて、
——この6月にハンガリーに行ったんですよ。
と、話しかけてみる「ほう」という感じの軽い関心がこちらに向いたので、スマホ(正しくはiPod touchだが)にあった首都ブダペストのバスターミナルの写真を見せる。そこから、
——ハンガリーではどこに?
と、話題が展開した。
 ブダペストからバスで2時間ほどの古都、ベスプレームの名前を出すと、私、昔そこに住んでたことがありますよ、と言う。話の歯車がこうして回りはじめ、今度はおばさんのほうから、ニューヨークは初めてか、とか、どこに行く予定か、などと聞いてくる。宿の話になると、ニューヨークは宿が高いから、今度来るときはAirbnb (エアB&B)を使うといいわよ、と助言もくれる。
 欧米女性の年齢は私にはとても推量できないが、無難なところで40代だろうか。薄利多売の細かい商売にしては労苦の影も見えず、むしろ作業はテキパキとして、エネルギッシュでさえある。やや下がり気味の両目尻が顔全体を柔和な印象にしていた。
 Face outという『ぴあ』のようなイベント情報誌がテーブルに置かれていた。表紙の写真はマラソンだ。それを見て思い出したように、今度の日曜日はニューヨーク・シティー・マラソンだと教えてくれる。世界有数の市民マラソンだ。ブルックリンのどこそこを出て、マンハッタンのどこそこで折り返して……。細かな地名はわからないが、ざっくりとした地理感覚として、大阪国際女子マラソンで長居競技場を出て北に駆け上がり、大阪城の脇をかすめ、御堂筋で折り返すコースを想像してみた。
 誰も知った出走者がおらず、ただ流れるように走り去っていくマラソンランナーをぼんやり眺めてもつまらないだろうと思いながらも、一介の日本人旅行者にそうやって詳しく教えてくれることがありがたい。どのみちブルックリンの宿からマンハッタンに出るので、ついでがあれば少しのぞいてみても旅の余興にいいかもしれない。
 客はときおり訪れ、コーヒーを買って帰っていく。客がいない間も、おばさんはキッチンの棚から何かを取り出したり、周りを整理したり、行動に休みがない。会話の集中力がそろそろ切れてきた私は店を出ることにする。出しなに写真を撮っていいか尋ねると、歯切れのいい快諾が跳ね返ってきた。
 奥の壁に掛かった大きなメニューボードにカメラを向けると、ああ、これは日本人の何とかちゃんが書いてくれたの、と懐かしそうに言う。私がその女性を知っていることなど期待したわけでもなかろうが、その声には少しだけ誇らしげな調子が混じっている感じがした。
2016.1.13 記)

Our Coffee Shop の入口
キッチンと店主のおばさん
(服装はハロウィンカラー
〈店舗情報〉
Our Coffee Shop
38-8 29th Street, Long Island City, NY
Q線39thアベニュー駅からの地図

(GoogleMapを加工)