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極東ロシアは夢の卸(おろし)  ─ロシア極東旅行記─
第3話 散 策
 十一時前にホテルをチェックアウトして荷物を預け、ドアを押し開けて街路に出ると、周囲に物音はほとんどなく、どんよりとした曇天の下、北国の澄んだ空気がひんやりと柔らかだった。
 四泊五日のフリーツアーで来ているのだった。今夜は夜行列車に乗り込み、一路ウラジオストクからハバロフスクへと移動する。送迎係がここのロビーに七時半に迎えに来るので、それまでが自由行動の時間だった。ツアーとはいっても同行者はいないので、個人手配の一人旅と何ら変わりない。リコンファームはさきほど無事に終了したので(第2話参照)、夜まで気楽に過ごせばよい。

 昨日は宿に着いたのが夜遅く、今日が実質的に旅行の初日だったが、朝メシのあとに市内を散策したので、中心部の地理はすでにある程度把握していた。
 今朝の散歩と同じ道をたどって鉄道駅まで行き、今度は線路を渡らず、線路の手前側の小さい道を歩いてみる。小雨がぱらつき始めるなか、地元の人たちと時折すれ違う。中央広場をそのまま突っ切り、大通りを渡る地下道をくぐると、地上に上がる階段の手前に地味なガラス・ドアがある。はたしてどこにつながっているのか。気になったのでドアを押してみる。
 ——ツェントラーリヌイだ。
 ウラジオストクの代表的なデパートである。カタカナで書くと無駄に長いが、発音はツェン・トラーリ・ヌイとわずかに三音節である。ツェントラーリは英語のcenter、つまり「中心」を意味し、最後のヌイは形容詞語尾である。要するに「セントラル」「中心的なもの」という名前のショッピングモールであった。
 地階から五階まで、各階を軽くひやかしながらエスカレータで上がってみる。
 見たところ各フロアの大半はファッション関係で、それも日本でいえば百貨店の品揃えというよりは総合スーパーの女物の衣料品売り場といった様相で、男の客には目を引く店がほとんどなかった。
 最上階はフードコートだった。
 階下の店の傾向から最上階だけに高級レストランがあるとは思えず、またラーメンやカレーライスがあるはずもなく、高カロリーのピザやパスタの店が三、四店営業するばかり、おまけに日曜日の正午近くだというのに、客がぽつりぽつりと点在する程度である。食事時にこの静けさは、どうにも落ち着かない。手軽なロシア家庭料理でもあれば夜行列車に乗る前に来るのも一案かと思ったが、わざわざやってくるほどの場所ではなさそうだった。

 一階の正面出入り口から表通りに出る。
 ほぼ南北に走るオケアンスキー大通りと、ほぼ東西に延びるスベトランスカヤ通りが、中央広場の前でぶつかって丁字路を作っている。その丁字路の角の、地下道への入口の脇に、シナボン(Cinnabon)の小さな立て看板があった。「シナボン」はシナモンロールを売るアメリカの軽食チェーンである。一時期は日本にも出店していた。
 ——この近くにあるのか?
 そういえば、ツェントラーリヌイの一階の階段付近に甘いシナモンロールの香りが漂っていたのを思い出した。もしかしたら、あれがそうなのか? 正午前なのでそろそろ昼メシにしたいが、すでに八時すぎから歩いて血糖値が低下しているせいか、シナモンロールの甘い香りの記憶が大脳を侵食していく。
 母親が昔から「にっき」が嫌いで(子どもの頃はシナモンなどという洒落た呼び方はなかった)八つ橋ですら敬遠していた影響から、私はシナモンのすばらしさを知らずに育った。成長して見聞が広がるにつれてシナモンのうまさを知るのだが、幼少時代のシナモン欠乏が私のシナモン好きを助長した面が多少はあったかもしれない。
 「シナボン」が角のビルの二階にあると知った私は、嗅覚と足の赴くにまかせ、少し急いた気持ちで階段を上がった。

シナボン
シナボンの路上看板。Cinnabonだけが英字

 店内は白を基調にした明るい内装で、ビルの角にあるため窓が二方向に開いている。私は入口脇にあるケースの前でシナモンロールを指さして一つ注文し、さらに壁のメニューからミルク入りのアメリカンコーヒーを頼む。アメリカンを置いているのは米系チェーンだからというわけではなく、この界隈のこじゃれたカフェにはたいていエスプレッソとアメリカンの二種類のコーヒーが用意されていた。
 せっかくなので中央広場に面した窓際に座る。シナモンロールは思ったほどの甘さはなく、シナモンの味がしっかりと発揮されていてうまかった。
 客は初め、若い女性が窓際に座っているだけだったが、やがて家族連れがやってきて日曜日のブランチとしゃれこむ風情であった。

 雨は地雨になってきた。
 宿を出るときに折りたたみ傘を何気なくかばんに忍ばせてきたのは正解だった。窓から見下ろすと、丁字路にできた水たまりに雨粒が頻繁に落ちていて水面が忙しい。そして車が通り過ぎるたびに、まるで路面から両手が突き上がるように水が勢いよく跳ね上がった。
 カップに残ったコーヒーを飲みながらしばらく外を眺めていたが、雨が一向に止む気配を見せないので、今度はウラジオストクの港に沿ってスベトランスカヤ通りを歩くことにした。

(11.1.03記)